城下町

出典: Jinkawiki

2009年1月31日 (土) 12:12 の版; 最新版を表示
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城下町(じょうかまち) 戦国期以降、大名の居城を中心に形成された都市で、大名領国の首都としての性格をもつ。幕藩体制の解体によって消滅したが、近現代の主要都市のほとんどは旧城下町を母胎としている。


戦国期

南北朝動乱期、在地領主は軍事施設として峻険な山頂や丘陵などに山城を築き、麓の居館の周辺に家子郎党の屋敷集落を形成したが、彼らは平時には農耕に従事する態勢にあり、町屋の発達はみられなかった。室町期に至り守護大名領国制の展開に伴い、かつての国府や水陸交通の要地に守護所を設け、守護町を形成したが、居館の周囲に一部の給人の土居屋敷を巡らした屋形町であった。なお守護町のうち戦国城下町に進展しえたのは、今川氏の駿河府中(静岡市)、武田氏の甲斐、府中(甲府市)、大内氏の周防、山口(山口市)、大友氏の豊後、府内(大分市)、島津氏の薩摩、鹿児島(鹿児島市)などがある。

このように守護の戦国大名化がみられる一方で、守護代・国人層のなかから成長した戦国大名は、前代の山城から比較的低い平山城へ移って城郭の規模を拡大し、専門武士団を常置するとともに、領国経営・軍事力強化のために近隣の市町を吸収し、遍歴の巡回職人を御用職人集団に編成するなど、物資調達態勢の整備に努めたから、16世紀後半には漸次城郭の周辺に町場が形成された。とはいえ、戦国期の城下町は士庶の居住区分も明確でなく、商業も市町による定期市の段階にあり、家臣団も支城を単位とする軍事編成がとられており、本城下への集住は限定され、なお農村に居住する者が多かった。近世城下町の先駆をなすのは1576年(天正4)織田信長の近江安土であって、地子免除に加え、楽市・楽座、関所の撤廃などを令して商工業者の誘致を進めたが、短期間で終わった。


近世城下町

兵農分離を伴う本格的な城下町の設営が行われたのは、豊臣政権以後である。とくに徳川政権確立後の諸大名の配置転換に伴って、領主権力による城下町の建設は17世紀前半(元和~寛永期)に全国的規模で行われた。元和の一国一城令(1615)によって支城の多くは破却されたが、新しい領国経営の拠点として、城地の選定は軍事的条件よりも交通・経済面が重視されたものの、多くは山丘と河川を防御的に利用した平山城が構築され、市街地の造成が行われた。それらは土地の強制収用、河道の付け替え、街道の城下への繰り入れなど、自然的景観の大改造を伴うものであった。城下の大半は武家地で占められたが、軍事上の配慮から、上級家臣の屋敷地を城の郭内あるいは近くに固め、その周囲に中・下級家臣を配し、足軽などの組屋敷や寺社地は町屋を隔てた場末や城下周辺部に配置するのが一般であった。

なお兵農分離による全家臣団の城下への集住は、領主・武士層の軍事的・日常的な必需品の生産と流通を担当とする商工業者の存在を必然とした。地子免除など領主の種々の優遇策によって領外から誘致された商工業者に加え、領内の在町・在村の商工業者も城下に強制移住させ、都市と農村との社会分業=商農分離が行われた。

初期の町割にあたっては、業種別に棟梁とか商人頭といった統率者を通じて屋敷地が割り当てられ、同業同職集居を特色とした。商人町としての石町(米屋)、塩町、肴(魚)町、青物町(八百屋)、紙屋町、職人町としての鍛冶町、大工町、紺屋町などの町名が旧城下町の都市に多いのは、その名残である。 とくに職人町の場合、町役免除の特権と引き換えに、その生産を優先的に領主の需要に振り向けることが義務づけられていた。また商人町の場合も、商業助成策として特定町に専売特権(町座)が付与された例が多い。

城下町の本町人とは、このような成立期に屋敷割を受けた者たちであり、これらの町人が生み出す新たな需要に応じるための町人がこれに追加されて城下町の発達がみられた。すなわち、このような領国経営の核とする都市計画も、前期における城下町への流入人口の増加による市域の拡大とともに、同業集居の原則は崩れ、平和の長期化による軍需の減退は、手工業生産の内容を変え、特定町の専売特権も消滅していった。そして初期的な門閥町人による少数支配にかわって、新興の問屋商人を中心とする遠隔地商業組織が17世紀後半から18世紀前半にかけて形成された。最も城下町といっても、領主の所領規模の広狭や地理的立地条件によって領域経済に果たしえた経済的機能には格差がある。したがって各城下町の盛衰の時期は一様ではないが、概して元禄期(1688~1704)前後に最盛期を迎えたが、その後、領主経済の窮乏による中央都市商人への依存度の増大、領内外の在郷町の成長などによって、城下町の経済的地位は停滞ないし減退するに至った。廃藩置県後、城郭の大部分は破壊され、人口の大半を占める士族は四散したが、代表的な城下町の多くは県庁所在地として地方自治の中枢にあり、あるいは鎮台設置による軍事都市として蘇生した。


城下町の面影

現在の日本で、人口十万以上の都市の半分以上は城下町を起源とするが、大火や戦災、開発などで姿が変わり、往時を偲ぶことのできる城下町は少なくなってきている。江戸時代以前の町並みが残る町の多くは、小京都と呼ばれ、観光スポットとなっている。また、近年では、江戸時代の面影が残る街を小江戸(当初は川越などの一部の都市を指した)と呼ぶこともある。旧城下町の内、重要伝統的建造物群保存地区に選定されているものを以下に例示する。


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