金大中事件
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
1973年8月8日、来日中の韓国元大統領候補・金大中(キム・デジュン)氏が何者かによりホテルから拉致され、5日後、韓国の自宅前で発見された事件。
金大中と事件のあゆみ
金大中は1924年1月6日韓国南西部の小さな島・荷衣島で農家の次男として生まれる。船会社の経営をしていたが、政界入りを目指して国会に挑戦、1961年の補欠選挙で国会議員に初当選した。 1971年に大統領選挙に出馬するも、朴正煕(パク・チュンヒ)634万票に対して540万票と善戦するが、落選。しかし、この善戦は国内多くの民主化運動の活動家たちを勇気づけ、それに脅威を覚えたKCIA(韓国中央情報部)は同年、金氏を交通事故に装って殺害を試みるが失敗。金氏は関節を痛め、座布団なしでは座れない体となってしまう。しかし、その後も日本やアメリカの同胞たちを訪れて、外からの支援を依頼しつつ民主化運動をすすめていた。 しかし国外にいた1972年10月朴政権は、非常戒厳令を発布。金氏は帰りづらい状況に陥る。そこで起きたのがこの金大中事件である。 金氏は拉致された後、ソウルの春にいたるまで自宅での軟禁生活をする。朴政権が倒れたと思うと、1981年光州事件による死刑判決、恩赦で無期懲役に減刑。1982年刑の執行停止をうけ、その後しばらくアメリカに滞在。1987年、1992年に大統領選挙に立候補するも敗れ、一時政界をあとにする。しかし、1995年かつての敵・金鍾泌(キム・ジョンピル)と大胆な同盟を結んで1997年大統領で初当選。当時73歳。初めて大統領選挙に立候補したのは47歳であった。
政治決着
事件当時韓国は朴正煕の事実上の独裁政権下にあって、金氏は戒厳令が施行されている国内を避けて、日本とアメリカを舞台に民主化運動を行っていた。現場に在日韓国大使館の金東雲一等書記官(事件後解雇・その後行方不明)の指紋が残されていたことから、事件はKCIAによるものと思われたが、韓国政府は「これは韓国国内の問題である」として日本の捜査当局からの調査依頼を一切拒否。同年11月2日金錘泌が来日して日本の田中角栄首相と会談。日本と韓国の政府間で、金大中氏の今後の身の安全を韓国政府が保証することを条件に、これ以上の事件究明は行わないという政治決着がされた。
参考文献
・[1]
・Wikipedia