フランス人権宣言2
出典: Jinkawiki
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【背景】 アメリカ独立宣言を参考に、アメリカ合衆国で自由主義の精神の洗礼を受けたラ=ファイエット(〔1757~1834〕アメリカ独立戦争に単身参加したフランスの政治家・軍人)によって起草された、自由・平等・博愛(すべての人を等しく愛すること)の精神を明白にし、国民主権・基本的人権の尊重・所有権の確立などが盛り込まれた近代市民社会の基本原理を確立したこの宣言は、直ちに各国で翻訳され、瞬く間にヨーロッパ全土に広がり、フランスでは、翌日から憲法本文の審議に入った。 もとより宣言は、各国憲法や資本主義経済の発展および市民階級の興隆に大きく寄与した。日本でも100年後の明治初年の自由民権運動勃興(ぼっこう=急激に勢力を増して栄えること)の原動力となった。
【人権宣言詳細】 フランス革命当初の1789年8月26日に憲法制定のフランスの国民議会が議決した「人と市民の権利の宣言(Déclaration des droits de l'homme et du citoyen)」のこと。前文と全17条から成り、第1条で「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」とうたい、主権在民、法の前の平等、所有権の不可侵などを宣言する。
まず前文は、自然権の提示により社会体の構成員(=市民)が自らの権利を自覚し、政治制度の目的とするところとつきあわせ、尊重されるべき旨を説いたものである。第1条(自由と権利の平等)は、自然状態にあって自由であった個人を社会体に迎え入れる際に、それを権利として保障し、かつその他の権利も含めて、すべての者に等しく承認することを示したもの。第2条は、政治共同体の目的としての自然権の保全をうたい、自然権たる自由・所有・安全・圧制への抵抗を宣揚したもの。圧制への抵抗は、自由権あるいは他の権利が恣意的権力や専横な他者から侵される際に行使しうる権利である。しかしそのための具体的手段が明記されていないことは注意を要する。第3条(国民主権)は、自然権を保障されて社会体に入る市民の総体たる国民に主権、つまり共同体の最高意志の決定権があることを明記したもの。第4条は社会体形成に際しての個人の対他的関係、つまりは自由の限界を、第5条は個人と社会体の関係を法への服従と法の限界として示したもの。第6条は、法が権威をもつための条件を規定し、市民の法作成への平等参加、法の前の平等がそれにあたる、とする。さらに公職就任にあたって、能力に応じかつ徳性・才能の差のあることをみとめた上で、その他の点で平等に就任の機会を与えられるべきことを説く。この留保点は重要である。第7条・第8条は個人が正当に処罰されるための条件を示し、それとともに合法的な召喚・逮捕への服従義務を説いたもの。第9条は、有罪確定前の不拘禁の原則をのべている。第10条は、意見表明の自由とその限界が述べられている。〈たとえ宗教上のものであっても〉という宗教にとって遠慮がちな挿入は、信仰の問題や、カトリックの公的な位置が新体制の中で未だ確定していなかったことによる。第11条は、思想・意見の伝達、印刷の自由と限界。これは第1条でいう自由の中身の一つであり、精神的な自由といえる。第12条・第13条は、市民の権利の保障のための公共の力とその維持費としての租税の必要をのべ、担税力に応じた平等配分をうたっている。第14条はその租税が市民の強制されざる同意にもとづき、使途の追及・税額・徴収法・存続期間の決定に、直接あるいは間接の権利を有することを規定。第15条は、社会が行政の公職者に報告を求める権利を有することの確認。第16条は、権力の分立の原則が憲法に不可欠であることの宣明。第17条は、第2条でのべた所有権を再確認したもので、同権の奪われる場合の条件を示している。以上みたように観念の重複や反復がないわけではないが、自然権思想を下敷きにした社会体形成の原理としての整合性を認めることができる。
ブルジョワ革命の自然権思想は遠くジョン=ロックのそれにさかのぼることができる。その所有権・抵抗権思想、立法権と執行権の分立はアメリカ独立のトマス=ジェファソンにとりいれられ、さらにかれがパリで直接、接触したラファイエットに強い影響を及ぼした。しかしその場合もフランスの特異性に注目しなければならない。人権宣言と憲法とが切り離されたこと、いいかえればまず自然権的基礎の上に制憲権力をもとづかせることで専制的絶対王権や特権身分制を否定し、次にその成果の上に実定法上の権力を設定するという段取りは、フランス革命に固有のものである。これは、名誉革命を背景としたロックの政治論が、自然権としての所有権や議会主権的な統治構造をいわば既得の成果として追認することに主眼があったのに比し、フランス革命の場合は、国民議会宣言のあとにいたるもなお、宮廷保守派の策動があり、封建的特権は廃止(8月6日)されても、公法の領域ではなお旧体制原理が残っていたからである。したがってまずこれを廃棄して法的平等と国民主権を宣する必要があった。
法的平等と国民主権を明示したといってもそれは即、政治的平等や急進的な人民主権を意味したわけではない。第2条でいう抵抗権が、具体的行使手段を欠いたのも、特権制の否定による個人的・市民的権利の保障、それをもとにした社会体の形成という不可逆的な過程をふまえているためである(さらにいえば、それは国民議会宣言直前の資格審査によって、代行的に行使されたのである)。憲法審議が本格化する1789年9月以後、政治的権利つまり選挙・集会・請願の権利の行使は、3日分の労賃相当額を直接税としておさめる能動市民にだけ与えられ、ここに能動市民・受動市民の政治的不平等が明らかになった。1791年9月3日に完成・発布される憲法(1791年の憲法)は、この原理にもとづきつつ、立法・執行両権力の均衡・部分的結合(併有=国王の停止的拒否権)など実定権力の規定をおこなっている。同憲法がその前文にさきの人権宣言全文を掲げていることは、矛盾ではなく、制憲権力の所在-実定権力の規定・構成法、という革命作業の全体をここで総集成したものである。
しかし他方で、ロベスピエールのように、第14条の代表制の字句挿入を不要としたり、第16条の権力の分立を、一般意志の全能性と抵触すると考え、留保を示す者もいた。当然、かれは能動・受動市民の差別に反対するわけで、その立場は1792~93年になっていっそう鮮明になる。かれとともに山岳派は、1789年の人権宣言が曖昧さをのこしていたとして、政治的平等・議員喚問や法案再審などによる抵抗権の具体的行使を盛り込んだ、人民主権的な新人権宣言を起草することになろう(1793年の憲法)。
〔参考文献〕高木八尺・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』、岩波文庫
杉原泰雄『国民主権の研究』、岩波書店
稲本洋之助『1789年の「人および市民の権利の宣言」--その市民革命における位置づけ--』
東京大学社会科学研究所編『基本的人権 3 歴史II』、東京大学出版会
(http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q088R100.HTM) (http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/furannsujinnkennsenngenn.htm)より引用