三十年戦争2

出典: Jinkawiki

2009年8月6日 (木) 04:58 の版; 最新版を表示
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三十年戦争とは 三十年戦争は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争のことである。「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」などと形容されるが、スウェーデンが参戦した1630年以降は、ハプスブルク家、ブルボン家、ヴァーサ家による大国間のパワーゲームと捉える向きもある。三十年戦争は名前の通り30年間絶え間なく続いたのではなく、数ヶ月から2年程度の小康状態を挟んで断続的に続いた。当時はほとんどの軍が長期間統制しにくい傭兵によって賄われており、国王直属の常設軍隊は稀であったからである。また、長期の戦争を継続することは国家財政を圧迫するため、たびたび戦争が中断されることになった。しかし、戦争が長引くとインターバルの期間は次第に短くなり、三十年戦争の最終段階では13年間にもわたる戦闘が繰り広げられた。この戦争は4つの段階に分類することができ、後になるほど凄惨さを増していった。この4段階にわたる戦争はそれぞれハプスブルク帝国に対抗する勢力や国家の名前をとっており、第1段階が、ボヘミア・ファルツ戦争(1618年 - 1623年)、第2段階がデンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625年 - 1629年)、第3段階がスウェーデン戦争(1630年 - 1635年)、第4段階:フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)と呼ばれている。 三十年戦争は新教派(プロテスタント)と旧教派(カトリック)との間で展開された宗教戦争と捉えられることが多いが、それはこの戦争の単なる一側面に過ぎない。当初は宗教闘争に名を借りた民族対立の様相を呈していたが、戦争の第2段階から徐々に国家間の権力闘争の側面が露わになり、ヨーロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする勢力間の国際戦争として展開されることになった。


ボヘミア・ファルツ戦争 当時のボヘミアは、カトリック派であるハプスブルク家の支配下にあり、新旧両教徒の間でたびたび衝突が生じていたが、ボヘミア王を兼ねた神聖ローマ皇帝たちは、プロテスタントの勢力が大きくなるとこれと妥協し、信仰を認めた。時の皇帝兼ボヘミア王マティアスも両教徒の融和政策を進めていた。しかし、1617年、熱烈なカトリック教徒のフェルディナンド2世はボヘミア王に選出されると、新教徒に対する弾圧を始めた。翌1618年、弾圧に反発した新教徒の民衆がプラハ王宮を襲い、国王顧問官ら3名を王宮の窓から突き落とすという事件が起きた。プロテスタントのボヘミア諸侯はこの事件をきっかけに団結して反乱を起こしたのである。これ以後、ハプスブルク家のボヘミア支配は強固なものとなった。1627年の新領法条例によって議会は権力のほとんどを奪われ、ボヘミアはハプスブルク家の属領となった。これにより、多くのボヘミア貴族や新教徒が亡命し、ヨーロッパ各地に散らばった。しかし、ハプスブルク家による財産の没収や国外追放といった苛烈な戦後処理は他の新教徒諸侯の離反を招き、戦争が長期化する原因となった。

デンマーク・ニーダーザクセン戦争 1625年5月にデンマーク王クリスチャン4世が、プロテスタント側に就いて参戦した。クリスチャン4世はプロテスタントであり、白山の戦いの勝利に自信をつけているカトリックに対抗することが表向きの参戦理由であった。しかし実際のところは、神聖ローマ帝国のニーダーザクセンの区長として、長らく空位になっている2つの帝国内の司教職に自分の息子を就任させる要望を出したところ、皇帝フェルディナント2世に拒絶され、ティリー伯の軍がニーダーザクセンに進駐してきたことが真の理由であった。この戦争は1629年に「リューベックの和約」が皇帝との間で成立し終結を迎える。

スウェーデン戦争 グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンはフランスの資金援助を受け、プロテスタント教徒を解放すべくドイツに侵入した。ここからスウェーデン戦争が始まる。当初スウェーデン軍は諸侯の援助を受けられなかったが、食料難に苦しむ皇帝軍がマクデブルクで略奪、虐殺(マクデブルクの戦い)を行ったことから情勢が一変する。皇帝軍に失望したザクセン公と同盟を結んだスウェーデン軍は1631年、ライプツィヒの北方、ブライテンフェルトで皇帝軍と対峙する。戦いは新式の軍制、装備、戦術を有するスウェーデン軍の圧倒的勝利に終わった。翌1632年にはレヒ川を挟んでスウェーデン軍と皇帝派のバイエルン軍が相対し、砲兵の効果的な運用で再びスウェーデン軍が圧勝する。皇帝側はそれまで数々の勝利を収めた総司令官ティリー伯が戦死するなど、大きな損害を被った。

フランス・スウェーデン戦争 スウェーデン・フランス戦争は泥沼化し、1635年から1648年まで続いた。フランスは後に名将と呼ばれるテュレンヌ将軍をドイツに送り込み、皇帝軍は一方的な守勢に立たされた。さらにスウェーデン軍は巻き返しを図る。この戦役では、フランス宰相リシュリュー、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の戦略がぶつかり合うことになった。フランス軍は主にスペイン軍と、スウェーデン軍は皇帝軍と戦った。1648年、スウェーデン・フランス連合軍は皇帝・バイエルン連合軍を破り、大勢は決した。スウェーデン軍はプラハを包囲し、これを占領した後、帝都ウィーンを攻める態勢を固めた。皇帝はついに10月24日、和平条約への署名を決断し、三十年戦争が終結を迎えた。

参考文献

『ドイツ三十年戦争』 シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド 著, 瀬原義生 訳 刀水書房

『戦うハプスブルク家―近代の序章としての三十年戦争』 菊池良生 著 講談社

『世界戦争史』 伊藤政之助著 


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