マチュ・ピチュ
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
目次 |
マチュピチュ Historic Sanctuary of Machu Picchu
マチュピチュはペルーのウルバンバ谷に沿う高い山の頂上にあるインカの遺跡である。マチュピチュとは「老いた峰」を意味する。しばしば、「インカの失われた都市」「空中の楼閣」と呼ばれることもある。山裾からはその存在を確認できないことから「空中都市」とも呼ばれるこの遺跡は、スペイン人から逃れるために、あるいは復讐の作戦を練るために、インカの人々が作った秘密都市だったともいわれているが太陽観測のためにつくられたという説もある。植物は多様性に富んでいて、行政上クスコと同じ地域に属している。だが、マチュピチュにまつわる多くの謎は、未だに解明されていない。ペルーの世界遺産である。
マチュピチュの地理的構造
尖った絶壁の山々がそびえるペルーのウルバンバ渓谷の山間、標高2,280mの頂上にあるマチュピチュ。マチュピチュには、3mずつ上がる段々畑が40段あり、3000段の階段でつながっている。大広場を中心に石組みの建造物が狭い石畳の道や階段で結ばれ、周囲は高さ5m程の石積みの壁で囲まれている。西の市街区は神殿や宮殿、居住区などに分かれ、周囲は城壁で固められている。遺跡の面積は13km2で石の建物の総数は、200戸程数えられている。
マチュピチュの遺跡発見
16世紀半ばになると、マチュピチュからインカ人の姿は見られなくなる。その後400年以上にわたって人の目に触れることなく、1911年にアメリカ人歴史学者ハイラム・ビンガムが初めて遺跡を発見する。そのときすでに、マチュピチュは草に覆われた廃虚となっていた。彼は「マチュピチュ:インカの要塞」など数多くの書籍や論文を残した。特に、「失われたインカの都市」は有名である。彼の研究の結果、マチュピチュは、太陽で崇める神官たちが統治した、また太陽の処女たちが生贄にされた、などという定説が広まった。 しかし、最近になり、マチュピチュはすでにペルー人が発見していたという説が有力になってきた。そのペルー人は、クスコの農場主のアグスティン・リサラガであり、ビンガムより9年早い1902年7月14日に発見した、とのことである。これについては今研究中である。
最近の研究によって明らかになってきたこと
マチュピチュはインカ人がスペイン人から逃れた最後の砦と考えられていたが、リチャード・L・バーガーやルーシー・C・サラザールらの研究やスペイン公文書によって、そうではないことがわかってきた。 マチュピチュは夏至や冬至の区別がつけられるほど太陽の観察をするのに最適であったことや、インカ帝国は太陽を拝み、皇帝は太陽神として崇められていたことから、マチュピチュは要塞ではなく、太陽を観測し拝むために、15世紀のインカ帝国で絶大な力を持っていた皇帝・パチャクティがつくったのではないかと考えられるようになった。また、遺跡の要所に最高神である太陽の位置を観測する装置が設置されていること、周囲の山々も神聖なる場であり、マチュピチュからは山の頂きが全て見渡せるようになっていることからもよく分かる。これらの事からマチュピチュは、皇帝が太陽から暦を作り、太陽に祈りを捧げる儀礼の場であったと考えられる。マチュピチュはインカ帝国が神聖な場所に特別に築いた宗教都市だったのだ。 また、アメリカのエール大学の研究では、出土した人骨や品物からマチュピチュでは争い事がなく、人々は平和で健康的な暮らしを送っていたことが明らかになった。
マチュピチュでの生活
マチュピチュは、普通の都市として人々が住んでいたわけではなく、インカ王族や貴族が避厚するための離宮や田舎の別荘のようにして利用していた。そのため雨季や王族が不在の時は数えるくらいの人々しか住んでいなかった。 パチャクティはなぜこんな急峻で空気の薄いところに遺跡を建てたのか、それは、太陽により近いところこそ神により近づける場所だ、という考えがインカ人の宗教的な考え方にあったからだろう。
マチュピチュが注目されてきた現在
近年、世界遺産に興味ある若者、世界遺産を見に海外旅行に行く若者が増えてきたように思う。それは我々日常生活で世界遺産が身近になってきたからだ。急速なグローバル化に加え、あのジブリで有名な宮崎駿や鉄腕アトムで有名な手塚修その他いろいろな作品で遺跡を登場させてきたことがきっかけであるように思われる。また、マスメディアの影響や遺跡を見に行くまでの交通手段が発達したことも理由であるだろう。 参考にマチュピチュまでの交通手段も載せておく。 クスコからマチュピチュ下の村アグアス・カリエンテスまで列車で約3時間半。そこからバスで約20分。
参考文献
*ウィキペディア[1]
*ペルー観光情報サイト [2]
*NHK世界遺産 [3]
*百科事典マイペディア