ムハンマド2
出典: Jinkawiki
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ムハンマド(Muhammad)
[生]570頃・メッカ [没]632.6.8・メジナ
英語読みでは「マホメット」
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概要
イスラムの開祖。アラビアのメッカ生まれ。40歳頃アッラーの啓示を受け、預言者として唯一神の信仰と偶像崇拝の排斥、人間の平等性を訴えて新宗教を提唱したが、支配者の迫害を蒙り、622年ヤスリブ(現在のメディナ)に聖遷(ヒジュラという)、教勢を拡張して630年メッカの征服を達成。勢力は全アラビアに及び、632年10万の信徒を従えてメッカ巡礼を行い。アラファートでの説教の後、まもなく病没。啓典としてコーラン(クルアーン)を残した。
生い立ち
アラビア半島の商業都市メッカで、クライシュ族のハーシム家に生まれた。孤児として貧窮の生活を送ったが、長じて年長の富裕な未亡人ハディーシャと結婚した。ムハンマドはハディージャとの間に2男4女をもうけるが、男子は2人とも成人せずに死んだ。隊商に加わって各地を旅し、その間にキリスト教・ユダヤ教の影響を受けたらしい。(概要にもあるように)40歳ごろアッラー(神)の啓示を受け、その預言者として布教を開始した。しかし、メッカの上層商業貴族の迫害を受けて、622年メディナに移り(聖遷〈ビジュラ〉)、ここで政教一致のイスラーム国家建設を唱えて勢力をたくわえ、630年にメッカを占領、ついでアラビア半島の大部分を征服したが、シリア遠征の途中で死んだ。
メディナでのムハンマド
メディナに移ったムハンマドは、イスラム独自の儀礼を確立した。そして信仰共同体の結束を固めて武装し、メッカとの武力闘争を開始した。まず、メッカとシリアとの交易路を遮断し、メッカの隊商隊を襲った。何度もメッカ軍と交戦し徐々に勢力を拡大していった。 627年、ハンダクの戦いで1万のメッカ軍を破り、630年にメッカに無血入場する。ムハンマドは白いラクダに乗ってカーバ神殿を7周し、そこに立ち並んでいた360の偶像を全て破壊した。カーバ神殿はアラーの神殿となった。
アラビア統一
ムハンマドは、メッカ征服の前後からアラビア各地の遊牧部族を信者にし、631年にはアラビア半島全土を統一した。632年、4万の信者とともにメッカに巡礼し、メディナに戻った。しかし、数ヵ月後にこの世を去った。632年6月8日のことである。
ムハンマドはメッカのカーバ神殿から一夜のうちにエルサレム神殿まで旅をし、神殿の岩から天馬に乗って昇天したといわれている。ムハンマドが昇天した場所にはウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれた。
ムハンマドは、後継者を指名しなかった。彼の死の翌日、長老格のアブー・バクルが初代カリフに選出され、正統カリフ時代に入る。
イスラム世界の形成と発展
預言者ムハンマド(マホメット)が始めたイスラム教は、ユダヤ教やキリスト教の影響を受けて生まれた。その独特の聖戦の概念により、僅か1世紀の間に中央アジアから北アフリカ、イベリア半島にいたる大帝国を築いた。
11世紀以降は北アフリカのベルベル人の改宗が進み、内陸アフリカにも広まった。また、インドにも王朝を建設し、13世紀に入ると貿易活動を通じて東南アジアにも広まっていった。
イスラム文明は、コーランを中心とする宗教・学問と外来の文明が融合したものである。ギリシアやインドから学んだ自然科学や数学は、ヨーロッパに大きな影響を与えた。特にインドから学んだ十進法とゼロの概念は、数学を発達させ、 現在使用しているアラビア数字は、イスラム世界で完成された。
また、イスラム商人の活動は、中国・インド・ヨーロッパに広がり、文明の交流に大きく貢献した。現在、イスラム教徒は6億人を超えている。
参考文献
広辞苑 岩波書店 第六版
世界史辞典 旺文社 三訂版
ムハンマド [1]