封建制度
出典: Jinkawiki
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構造・歴史・義務
封建制度は主君(封主)と家臣(封臣)との間に結ばれる家臣関係(主従関係)を中心としている。家臣関係を結ぶには、託身と忠誠の近いが必要であった。託身は二つの行為から成っている。第一は家臣が両手を結んでさし出すと、主君が同じように両手でこれを握りしめることであり、第二は家臣が主君のhomo(人間の意)になると宣言することである。忠誠の誓いは、家臣が立ったまま聖書または聖遺物箱に手をおいて、主君に対する忠誠の義務を怠りなく尽くすという誓いの言葉を述べることである。 家臣の義務については、シャルトルのフュルベールの手紙などに記されている。それは主君を裏切らないなどの消極的なもののほかに、積極的な義務としては援助と助言とがある。援助としては軍事的奉仕が第一で、家臣の義務としてこれがもっとも重要であることはもちろんである。それは完全武装と略装、自分一人で出陣するときと家来を連れてゆくときなど多様であったが、普通一年間に四十日間以内ときめられていた。経済上の援助としては、(1)捕虜となった主君の賠償(2)主君の長男の騎士叙任(3)主君の長女の結婚(4)主君のイェルサレム巡礼の四つの場合があげられる。助言としては、主君の宮廷に出て裁判その他で主君を助けることであった。しかしこれらの義務もいろいろで、単に主君に宿舎を提供するなどきわめて些細なものであった。家臣関係は相互契約的なもので、家臣だけでなく主君もまた義務を負った。これもまた家臣を裏切らないなどの消極的なものとともに、積極的な義務として、保護と養育の二つがある。保護は軍事的と司法的、すなわち家臣を武力で守り、また法廷で家臣を弁護することであった。養育は家臣を自己の宮廷で養うこと、あるいは封を与えるものである。 主君は家臣に封を授与する。封は主として土地(封土)であるが、官職、金銭、徴税権など300種類以上あったという。主君は授封のシンボルとして、家臣に鞭、指輪、小枝、芝などをあたえる。封は元来家臣関係を結ぶ場合の付属物にすぎなかったが、後にはむしろ中心的地位を占め、封をうけるゆえに家臣の義務を果たすというようになる。それは封建制度において、人的要素より物的要素が、主君より家臣の方がその重要性を増したことを示している。封の授与は元来主君と家臣それぞれ一代限り効力を持つのみであったが、のち封の世襲が認められるようになり、家臣は封相続権をうるとともに、主君は封を相続人に再授与することを強制される、いわゆる授封強制が成立する。封の相続はフランク王国時代にすでに認められるが、11~12世紀には封相続の考えが確立し、封は原則として世襲のものと考えられるようになった。家臣がその義務を怠れば、反乱者として討伐され封は取り上げられる。主君が義務を果たさぬときには、家臣は家臣関係を破ることができる。その際家臣は封を返すべきであるが、一般的には返却しないので、両者の間に戦いがおこるのが普通であった。 家臣関係は一人の家臣が一人の主君にのみ仕えるとは限らず、多くの主君を同時にもつ場合もすくなくなかった。12世紀のバイエルンの伯は、20人の主君をもっていたという。これは家臣関係を混乱させるので、「リギウス」の制度が考えられた。リギウスとは「自由な」の意味で、他の関係から解放されていることであり、「ドミヌス・リギウス」に対してのみ家臣は完全な家臣の義務を果たした。
引用・参考文献
兼岩正夫 『新書西洋史③ 封建制社会』 講談社現代新書 1973年6月 76~79ページ