源氏物語
出典: Jinkawiki
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1 巻冊数・成立事情
現存の『源氏物語』は次の54巻からなる。 1桐壺(きりつぼ) 2帚木(ははきぎ) 3空蝉(うつせみ) 4夕顔(ゆうがお) 5若紫(わかむらさき) 6末摘花(すえつむはな) 7紅葉賀(もみじのが) 8花宴(はなのえん) 9葵(あおい) 10賢木(さかき) 11花散里(はなちるさと) 12須磨(すま) 13明石(あかし) 14澪標(みおつくし) 15蓬生(よもぎう) 16関屋(せきや) 17絵合(えあわせ) 18松風(まつかぜ) 19薄雲(うすぐも) 20朝顔(あさがお) 21少女(おとめ) 22玉鬘(たまかずら) 23初音(はつね) 24胡蝶(こちょう) 25蛍(ほたる) 26常夏(とこなつ) 27篝火(かがりび) 28野分(のわき) 29行幸(みゆき) 30藤袴(ふじばかま) 31真木柱(まきばしら) 32梅枝(うめがえ) 33藤裏葉(ふじのうらば) 34若菜(わかな)上 35若菜下 36柏木(かしわぎ) 37横笛(よこぶえ) 38鈴虫(すずむし) 39夕霧(ゆうぎり) 40御法(みのり) 41幻(まぼろし) 42匂宮(におうのみや) 43紅梅(こうばい) 44竹河(たけかわ) 45橋姫(はしひめ) 46椎本(しいがもと) 47総角(あげまき) 48早蕨(さわらび) 49宿木(やどりぎ) 50東屋(あずまや) 51浮舟(うきふね) 52蜻蛉(かげろう) 53手習(てならい) 54夢浮橋(ゆめのうきはし) 紫式部が『源氏物語』の執筆に着手したのは、夫の藤原宣孝(のぶたか)に死別した1001年(長保3)から、一条(いちじょう)天皇中宮彰子(しょうし)のもとに出仕した1005、06年(寛弘2、3)までの間と推定されるが、54巻が、どの時点でどのあたりまで書かれたのかは明らかにしがたい。全部が完成したのちに発表されたのではなく、1巻ないし数巻ずつ世に問われたらしいが、まず最初の数巻が流布することによって文才を評価された式部は、そのために彰子付女房として起用されたのであろう。宮仕えののちも、しばしば里邸に下がって書き継いだとおぼしいが、また、すでに書かれた巻々の加筆改修も行われたらしいことが『紫式部日記』の記事によって知られる。なお、現行の巻序の順に書かれたのかどうか、現行の54巻の形態が当初のものであったのかどうかなど、論議が重ねられているが、決着をみない。その擱筆(かくひつ)の時期は、紫式部の没年について定説のないこととあわせて、明確にしがたい。
2 あらすじ
『源氏物語』は、その主題・構成に即して、第1部(1「桐壺」から33「藤裏葉」まで)、第2部(34「若菜上」から41「幻」まで)、第3部(42「匂宮」から54「夢浮橋」まで)の三部作としてとらえることができる。
第1部「桐壺」~「藤裏葉」
第1部は、主人公光源氏の出生以前から始まる。ある帝(みかど)の後宮(こうきゅう)で、故大納言(こだいなごん)の娘の桐壺更衣(きりつぼのこうい)は、支援する後見(うしろみ)もないまま多くの后妃(こうひ)たちを引き離して帝の愛を独占し、やがて無類の美貌(びぼう)と才質に恵まれた第2皇子を生んだ。しかしながら更衣は同輩たちの憎悪嫉妬(しっと)の的となり、皇子が3歳の年、心労のあまり病死した。更衣の遺児の皇子は帝の庇護(ひご)のもとに成長し、学問諸芸の万般に神才を発揮した。帝はこの皇子を東宮(とうぐう)にたて、やがては皇位を譲ろうと願ったが、周囲の支持も得がたくて断念し、臣籍に下して源姓を賜ることになった。東宮となったのは、右大臣の娘弘徽殿女御(こきでんのにょうご)腹の第1皇子朱雀院(すざくいん)である。12歳で元服した源氏の君は、左大臣の娘で、帝の妹宮を母とする葵の上(あおいのうえ)と結婚し、その社会的地位の安泰も約束されたが、しかし母桐壺更衣の亡きあと後宮の藤壺(ふじつぼ)に迎えられて父帝の最愛の妃となった先帝の四の宮を恋慕し、ついに抑えがたい情熱に駆られて密通し、その結果藤壺は身ごもった。2人は絶対に知られてはならぬ罪を共有したのである。ふたたび藤壺に近づくことを禁圧された源氏は愛の渇きに苦しみ、ここに際限ない女性遍歴が始まる。藤壺の姪(めい)の紫の上を北山にみいだし、無理に自邸二条院に迎え取ったのも、この少女に藤壺のおもかげを求めてのことである。藤壺はやがて男子冷泉院(れいぜいいん)を生んだが、秘密を知らぬ帝は、源氏に生き写しの皇子の誕生に歓喜した。
源氏20歳の年、帝は朱雀院に譲位し、冷泉院が東宮となったが、しかし朱雀院の治世になると、その母弘徽殿大后(おおきさき)や右大臣一族の繁栄と表裏して、源氏や左大臣の勢力が衰退に向かうのは必然であった。源氏の生活にも不幸の影が忍び寄る。正妻葵の上が長男夕霧を出産ののち、執拗(しつよう)な物の怪(もののけ)に取り憑(つ)かれて死去したのである。その物の怪は、賀茂(かも)の斎院(さいいん)の御禊(ごけい)の日に、葵の上の一行との車争いによって辱められた六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊(いきりょう)なのであった。御息所は、いまは故人である前東宮の妃であり、かねてより源氏を忍びに通わせる人であったが、この事件のために源氏との仲を断念し、おりから伊勢(いせ)の斎宮(さいくう)として下向する娘とともに京を離れた。こうして源氏の身辺には暗雲がたち始めるが、ことに23歳の年父院が崩御されるや、右大臣一派の専横によってしだいに苦境に追い詰められた。そうした状勢のもとで、源氏と、尚侍(ないしのかみ)として朱雀院の寵愛(ちょうあい)を受けていた朧月夜(おぼろづきよ)との仲が露見する。朧月夜は右大臣の娘、弘徽殿の妹で、入内(じゅだい)前から源氏とは忍びの仲だったのである。激怒した弘徽殿や右大臣は、この機会に源氏を謀反者に仕立てて政界から抹殺しようとたくらんだ。源氏は26歳の春、自ら京を離れて須磨(すま)の地に退居し、謹慎の生活に入ったが、1年後、暴風雨に襲われ、夢枕(ゆめまくら)に現れた父帝の亡霊の教えに従い、明石(あかし)の海岸に居を構える明石の入道の邸(やしき)に移住した。やがて入道の娘明石の君と契って、その腹に明石の姫君をもうける。
源氏は2年余の流浪ののち都に召還され、まもなく朱雀院にかわって冷泉院の治世になると、政界に返り咲いた左大臣らとともに栄華への道を直進することになったが、しかしその段階になると源氏はしだいに左大臣家と対立関係を深めるに至った。葵の上の兄であり、かつては無二の盟友であった頭中将(とうのちゅうじょう)を制圧し、無類の権勢を確立したのである。源氏32歳の年、藤壺が崩御し、夜居(よい)の僧の密奏によって自己の出生の秘密を知った冷泉院は、父源氏に譲位しようとしたが、源氏はその意向を返上し、やがて太政(だいじょう)大臣から准太上(だいじょう)天皇の位に上り、六条院という地上の楽園を建設して栄華を極めた。
以上、源氏39歳までを語る第1部の概要であるが、この間、帝の后妃でありながら源氏と共有した罪に苦しみつつ冷泉院を守(も)り立てた藤壺の一生はもとより、空蝉(うつせみ)、夕顔、末摘花(すえつむはな)などとのあやにくな交渉をはじめとして、夕顔の遺児玉鬘(たまかずら)が源氏の愛の対象となって心を砕きつつも鬚黒大将(ひげくろのたいしょう)の妻に収まる経過、源氏の長男夕霧が頭中将の娘雲居雁(くもいのかり)との幼い恋仲をさかれたものの、ついには晴れて結ばれる経緯、その他さまざまの人生が複雑に織り込まれながら、前記のごとき源氏の栄華の完成の過程が構成されている。
第2部「若菜上」~「幻」
ところが第2部に入ると、物語の世界の基調は暗転し、朱雀院の重い病から語り起こされる。院は出家を願うが、すでに母女御に先だたれている内親王女三の宮(おんなさんのみや)の将来が憂慮されるので日夜思案に迷っていた。婿選びに苦慮したすえ、結局源氏にゆだねることによって出家することができたが、しかし女三の宮の源氏への降嫁によって、源氏と紫の上との年来の信頼関係を軸として保たれてきた六条院の調和が崩れ始める。もっとも源氏の世間的栄華は従前と変わりなく、むしろ増さるものであったといえよう。そして紫の上に養育されて東宮妃となった明石の姫君に男子が誕生し、この男子が将来帝位に上るであろうことも確実ゆえ、源氏の家門の末長い繁栄は約束されている。もとより誇り高く賢明な紫の上は、その知恵をもって六条院世界の秩序・調和の維持に努めたが、ついには心労のため病を得、六条院を去って二条院で養生する身となる。その紫の上の看病に源氏が余念のないころ、女三の宮は、かねてより彼女に思慕を寄せていた柏木(かしわぎ)に迫られ、身を許して身ごもった。この真相を知った源氏は、この事態を、かつて父院を裏切って藤壺と密通した罪の報いとして受容するほかない。女三の宮は罪の子薫(かおる)を生んでまもなく出家し、柏木は犯した罪の重みに堪えられず病み臥(ふ)していたが、源氏の長男夕霧に後事を託して世を去った。夕霧は柏木の遺族をいたわるうちに、残された妻落葉(おちば)の宮への同情はやがて恋慕に変じて、一方的に思いを遂げた。そのために夕霧と正妻雲居雁との仲も険悪化するに至る。こうして源氏の身辺には数々の不幸な事態が生起するが、そのなかで病状の悪化した紫の上は、源氏51歳の年に死去した。源氏は紫の上を追慕しわが生涯を顧みながら1年を過ごし、出家への心用意を整えた。こうして第2部は、源氏の無類の栄華が崩落していく過程が、さながら必然的な姿で語られている。現世の富も名声も、そして愛も絶対ではないのである。
第3部「匂宮」~「夢浮橋」
第3部になると、源氏亡きあとの縁者の物語であるが、若干の後日譚(たん)を経て、いまは20歳となっている罪の子薫(かおる)と宇治の姫君たちとの交渉が宇治の地を背景として新しく語り起こされ、巻45の「橋姫」から最終巻「夢浮橋」の10巻は「宇治十帖(うじじゅうじょう)」とよばれている。わが出生の秘密を感じ取って世間への執着を断ち、出家への本願を抱く薫は、宇治に隠棲(いんせい)する俗聖(ぞくひじり)八の宮を求道の先達と仰いで通ううちに、その娘大君(おおいぎみ)にひかれ、やがて八の宮の死後大君に求婚するが、大君は薫と結ばれたなら、相手を理想化しての敬愛関係が崩壊するであろうことを恐れて、拒否した。かわりに妹の中の君を薫にめあわせようとするが、薫は、いまは中宮となっている明石の姫君の皇子匂宮(におうのみや)と中の君との仲をとりもち、結婚させた。しかし中の君の身の上を憂慮した大君は、心労の果てに病死した。大君を失った薫は、彼女のおもかげを中の君に求めたが、中の君から異腹の妹浮舟の存在を知らされ、尋ね出して宇治に住まわせた。しかし浮舟はやがて匂宮に迫られて契りを交わすはめになり、ついに進退に窮したすえ、宇治川に身を投じようと決意したが、横川(よかわ)の僧都(そうず)に救われて小野の山里に隠れ住み、僧都の得度により出家した。失踪(しっそう)した浮舟を捜し求めた薫は、その生存を聞きつけ、浮舟の弟を使者にたて浮舟を訪ねさせたが、浮舟はこれを見ず知らずの人として背を向けるのであった。現世における諸縁を断とうと努め、誦経(ずきょう)と手習いに明け暮れる浮舟は、薫の手の届かぬ境地を生きる人となっていた。
3 享受・影響
『更級(さらしな)日記』に語られる菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の『源氏物語』への心酔は、同時代の享受の例として知られるが、これはかならずしも特殊な例ではあるまい。『源氏』は宮廷社会に限らず一般の貴族の家庭にも急速に流布した。貴族社会の繁栄期は、紫式部の生存した藤原道長の時代以後衰退の一途をたどったが、そうなれば過去の文化の盛栄を憧憬(しょうけい)する人々の心に『源氏』はますます権威をもって君臨することになる。院政期に、その一部が現存する『源氏物語絵巻』のような絵画芸術が宮廷の事業として制作されたことも、『源氏』が名作として評価されたことを示す。『狭衣(さごろも)物語』『浜松中納言(はままつちゅうなごん)物語』『夜の寝覚(ねざめ)』や『堤(つつみ)中納言物語』以下中世にかけてつくられた擬古物語はもとより、摂関時代の編年史の『栄花(えいが)物語』や以後の史書にも『源氏』の影響は著しい。和歌の詠作にも『源氏』がよりどころとなり、「源氏見ざる歌よみは遺恨(ゆいこん)の事なり」という『六百番歌合』の藤原俊成(しゅんぜい)の発言は、以後、中世の歌壇・連歌壇の風潮を規制するものとなった。宴曲、能楽にも『源氏』に取材する例が多く、さらに下って浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)の世界にも『源氏』は浸透したが、俳諧(はいかい)、川柳(せんりゅう)、雑俳(ざっぱい)などへの投影ともあわせて、それらは『源氏』が民間伝承と化した状態を物語るといえよう。中世から近世へかけての新旧文化の交代期を反映して『源氏物語』の受容は大衆化し、『湖月抄(こげつしょう)』ほかの啓蒙(けいもう)的な注釈や本文が数多く版行され、梗概(こうがい)書や俗語解・俗訳書も少なくはなく、『源氏』のもじりとして特筆される井原西鶴(さいかく)の『好色一代男』や柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』もそうした基盤のうえにつくられたのであった。
近代に入っても、与謝野晶子(よさのあきこ)、窪田空穂(くぼたうつぼ)、谷崎潤一郎(じゅんいちろう)、円地文子(えんちふみこ)などによって現代語訳が行われ、舟橋聖一や北条秀司(ひでじ)によって演劇化されるほか、多くの梗概書、翻案などが読者を獲得しているのは、『源氏物語』に日本人の美意識や感受性の原型がみいだされるからでもあろう。
なお、『源氏』は早くA・ウェーリーの優れた英語訳(1923~33)によって海外にその価値が認められ、この英訳に基づくさまざまの外国語訳が生まれた。第二次世界大戦後、欧米における日本古文化の研究の進みとともに『源氏』への関心も深まり、ユネスコの1965年度(昭和40)の世界偉人暦に紫式部が最初の日本人として登載されもした。E・G・サイデンステッカーの英語訳(1978)、R・シフェールの仏語訳(1978)や林文月の中国語訳(1974~78)、豊子 の同じく中国語訳(1980~82)がそれぞれ全訳として話題をよんだ。I・モリスの『光源氏の世界』(1964、日本語版1969)のごとき精緻(せいち)な研究も生まれた。A・ピカリック編集の『浮舟――源氏物語の愛』(1982)には、サイデンステッカーやA・マイナーらアメリカの研究者のさまざまの方法による論文10編が収められている。
4. 諸本と研究
『源氏物語』は、その成立期以来多くの人々によって書写されたが、平安時代の写本は伝存しない。現存する本文は鎌倉時代以降に書写されたもので、藤原定家の校訂した青表紙本(あおびょうしぼん)と河内守(かわちのかみ)源光行(みつゆき)・親行(ちかゆき)父子の校訂した河内本(かわちぼん)の両系統であり、そのいずれにも属さないのを別本と称する。青表紙本は紫式部の原本に近いと目されているが、河内本・別本に古形を伝える場合も少なくない。
注釈は平安末期の藤原伊行(これゆき)『源氏釈』に始まり、これを受けて藤原定家『奥入(おくいり)』がつくられた。ついで『原中最秘抄(げんちゅうさいひしょう)』『紫明抄(しめいしょう)』『異本紫明抄』など河内家による注釈が鎌倉期につくられたが、南北朝期の四辻善成(よつつじよしなり)『河海抄(かかいしょう)』によって、これまでの研究が統合された。『河海抄』に至るまでは故事、出典、引き歌等の考証研究が主であったが、室町期になると、文意・文脈に即した鑑賞的方向を打ち出した一条兼良(いちじょうかねら)『花鳥余情(かちょうよせい)』が書かれ、ついで肖柏(しょうはく)・三条西実隆(さねたか)『弄花抄(ろうかしょう)』、藤原正存『一葉抄(いちようしょう)』などがあるが、実隆・公枝(きんえだ)・実枝(さねき)ら三条西家3代にわたる源氏学が『細流抄(さいりゅうしょう)』『明星抄(みょうじょうしょう)』に結実した。実隆の外孫九条稙通(たねみち)『孟津抄(もうしんしょう)』も大著であるが、実枝の甥(おい)中院通勝(なかのいんみちかつ)『岷江入楚(みんごうにっそ)』は三条西家の研究を中心とする最大の諸注集成として注目すべきものである。
江戸期に入ると、印刷技術の発達によって、従来は公家(くげ)・僧侶(そうりょ)を担い手とした文芸・学問が庶民層に解放され、古典籍が続々出版されるようになり、版行された『源氏物語』の注釈には、切臨(せつりん)『源義弁引抄(げんぎべんいんしょう)』、能登永閑(のとえいかん)『万水一露(ばんすいいちろ)』、釈子真(しゃくししん)『首書(しゅしょ)源氏物語』、北村季吟(きぎん)『湖月抄』などが相次いでいるが、ことに歌注・傍注に要領よく古注を取捨案配して自説を加えた『湖月抄』は、類書を圧して広く流布した。この『湖月抄』を土台として、契沖『源註拾遺(げんちゅうしゅうい)』、賀茂真淵(かもまぶち)『源氏物語新釈』、本居宣長(もとおりのりなが)『源氏物語玉(たま)の小櫛(おぐし)』、鈴木朖(あきら)『玉の小櫛補遺』、石川雅望(まさもち)『源註余滴(げんちゅうよてき)』、萩原(はぎわら)広道『源氏物語評釈』等の、国学者たちによる優れた注釈が続出した。
明治期以後、現在まで『源氏物語』の注釈、研究書、研究論文の数量は膨大である。それらは重松信弘『増補新攷源氏物語研究史』(1980・風間書店)、阿部秋生・岡一男・山岸徳平編『源氏物語 上下』(『増補国語国文学研究史大成3・4』1977・三省堂)により、研究史の初期以来の展開とともに知ることができる。最近は年間150編から200編に及ぶ関係論著が発表されており、その総目録は紫式部学会編の年刊研究誌『むらさき』に収められている。