朝鮮戦争3
出典: Jinkawiki
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1. 規模
交戦当事国の一方は北朝鮮およびそれを支援して人民志願軍(義勇軍)を派遣した中華人民共和国、他方は韓国およびそれを支援して国連軍を編成したアメリカ中心の西側16か国。ソ連は朝・中側に武器弾薬その他の支援物資を提供したほか、軍事顧問、パイロット、医療部隊などを派遣した。戦場に投入された兵力は朝・中側が約300万人(朝・中各約150万人)、国連・韓国軍側が約260万~270万人(うち韓国軍約200万人)と推定された。国連軍兵力の90%以上は米軍である。国連軍に実戦部隊を派遣した西側16か国は以下のとおり。アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、ギリシア、トルコ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、コロンビア、タイ、フィリピン、エチオピアおよび南アフリカ連邦。このほかインド、イタリア、デンマーク、ノルウェーおよびスウェーデンの五か国が医療部隊ないし医療施設を国連軍に提供した。
2. 原因と性格
第二次世界大戦直後から急速に表面化した米ソの「冷戦」のもとで、朝鮮は南北に分裂し反目しあうことになった。それが遠因となったことは明らかだが、この戦争の直接の原因と戦争の性格については、いまなお多くの議論がある。韓国、アメリカなど西側諸国では一般に、韓国に対する北からの武力侵攻が発端になったとする見解がとられている。北朝鮮ではそれと反対に、同国の打倒をねらったアメリカが韓国政府を唆して引き起こしたと主張している。近年の日本の研究では、北側からの攻撃先行説が有力視されるようになった。すなわち、韓国をアメリカの事実上の植民地とみなした北朝鮮が、南北朝鮮の武力統一を呼号する李承晩(りしょうばん/イスンマン)韓国大統領の先手をとって「南半部解放」の軍事行動を起こし、その限りでは戦争は朝鮮半島における一種の内戦として始まったが、アメリカがこれに軍事介入したことから、大規模な国際紛争に発展したとする見方である。アメリカの軍事介入が、アジアにおける社会主義といわゆる民族解放運動の勢力拡大阻止を目的にして行われたことは確かである。
3. 経過
1950年6月25日早朝、北緯38度線を挟んで対峙(たいじ)中の朝鮮人民軍(北)と韓国軍(南)の間に数か所で衝突が起こり、朝鮮人民軍は敗走する韓国軍を追って南下した。トルーマン米大統領はただちに軍事介入を決定して在日米海・空軍、ついで陸軍に出動を命令する一方、国際連合にも介入を働きかけた。ソ連代表不在のまま招集された国連安保理事会は北朝鮮を「平和の破壊者」と非難する決議を採択し(ニューヨーク時間6月25日)、国連加盟諸国に韓国への軍事支援を勧告し(6月27日)、日本駐留米軍のダグラス・マッカーサー元帥を司令官とする国連軍総司令部の設置を決定した(7月7日)。この国連軍は国連憲章第7章に規定された正規の国連軍とは異質のものである。韓国軍は統帥権をマッカーサー総司令官に委譲してその指揮下に入った。トルーマン大統領はまた6月27日、共産勢力の台湾攻撃阻止を理由に米第7艦隊を台湾海峡へ出動させ、同時に左翼ゲリラ鎮圧に手を焼くフィリピン政府と、第一次インドシナ戦争遂行中の南ベトナム駐留フランス軍に対する軍事援助増強を決定した。
朝鮮戦争の戦局にはほぼ四つの段階があった。
(1)戦争勃発(ぼっぱつ)直後の70日間は朝鮮人民軍の圧倒的優勢のうちに進展した。1950年6月28日には韓国の首都ソウルが陥落、国連・韓国軍は9月初めには大邱(たいきゅう/テグ)、釜山(ふざん/プサン)を含む半島南端の狭い一角に追い詰められた。
(2)国連軍は9月15、16両日仁川(じんせん/インチョン)で大部隊の奇襲上陸作戦を行い、大邱地区でも反攻に転じた。国連・韓国軍は10月初めに38度線を突破し、同月19日平壌を占領、一部の部隊は鴨緑江(おうりょくこう)岸まで到達した。
(3)10月25日、中国人民志願軍の大部隊が鴨緑江を越えて参戦し、朝鮮人民軍とともに反撃した。12月4日には平壌を奪回し、翌51年1月4日、ソウルを再占領した。第5回国連総会は2月1日、中国を「侵略者」と非難する決議を採択した。国連・韓国軍は3月14日ソウルを再奪回したが、38度線付近では激闘が続いた。マッカーサー総司令官は中国本土爆撃を独断で主張、4月11日トルーマン大統領によって罷免された。
(4)6月以降戦線は膠着(こうちゃく)し、双方は互いに強固な陣地を構築して激しい消耗戦を繰り返した。国連・韓国軍は8月から11月にかけての「夏季・秋季攻勢」で戦線東・中部山岳地帯の制圧を試みたが、朝鮮人民軍の要塞(ようさい)「1211高地」が2か月余にわたる猛攻に耐えぬくなど頑強な抵抗にあって成功しなかった。翌52年10~11月の国連・韓国軍の大攻勢も同じような結果に終わった。中部の要衝である38度線北方の鉄原(てつげん/チョルウォン)―平康(へいこう/ピョンカン)―金化(きんか/クムホワ)を結ぶ三角地帯の攻防戦はとくに激烈で、「鉄の三角地帯」の激闘とよばれた。この間、北朝鮮各地は砲爆撃にさらされ、細菌弾、ガス弾にもみまわれた。1953年1月に発足したアイゼンハワー米政権は戦局打開のため原爆使用を検討したが、結局使用に踏み切ることは断念した。
4. 休戦
1951年6月23日、ソ連の国連代表ヤコブ・マリクがラジオ放送で休戦を提案し、これを契機に同年7月10日から開城(かいじょう/ケーソン)で交戦双方による休戦会談が始まった。その後2年間、激しい戦闘が続くかたわらで交渉が断続的に行われ、1953年7月27日、ようやく板門店(はんもんてん/パンムンチョム)での休戦協定調印にこぎ着けた。協定調印者は、一方が朝鮮人民軍最高司令官金日成(きんにっせい/キムイルソン)と中国人民志願軍司令員彭徳懐(ほうとくかい/ポントーホワイ)、他方が国連軍総司令官マーク・クラーク。韓国は休戦を不満として調印を拒否した。休戦にはなったものの、戦争の最終処理としての平和条約は締結されないまま今日に至っている。
この戦争での交戦双方の被害は甚大で、国連・韓国軍側の戦死者は韓国軍約42万人、米軍約5万人、その他の国連軍約3000人、ほかに韓国民間人106万余人といわれ、朝・中側は軍要員の死傷者だけで200万人以上と推定された。日本は参戦国ではなかったが、開戦当時まだ占領下にあったため、国土と産業をあげて国連軍の作戦遂行のために使われ、海上輸送や掃海業務に動員された船員のなかから死傷者も出た。また、この戦争に関連して実現した警察予備隊(自衛隊の前身)の発足、左翼運動規制の強化、「戦争特需」による経済活性化などは、戦後日本の政治、経済にとって一つの重大な転機となった。