カール・マルクス

出典: Jinkawiki

2009年8月8日 (土) 17:57 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

カール・マルクス(Karl Marx)はドイツの経済学者で哲学者、ジャーナリスト、革命家等の一面も持っている。「科学的社会主義」を盟友のエンゲルスとともに創設、資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来する必然性を説いた。マルクスの経済学批判による資本主義分析は主著『資本論』に結実し、『資本論』に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれる。

生涯

父ハインリッヒ・マルクスと母アンリエットの子供で、ユダヤ系ドイツ人。姉はゾフィー。 6歳の時にプロテスタントとして洗礼を受ける。 18歳のとき姉の友人で検事総長の娘だったイエニー・フォン・ヴェストファーレン(22歳)と婚約。 大学は、最初ボン大学に学び、後にベルリン大学に入学。 父が1838年、腎臓病のため死去。 1841年、イエナ大学への学位請求論文により哲学博士となった。 翌1842年、マルクスは、フリードリヒ・エンゲルスと出会った。 マルクスは、「ライン新聞」の編集者をしていたが、1843年、対プロイセン政府批判のために受けた同年3月の「ライン新聞への弾圧」により、失職した。 マルクスは、友人とともに、パリで『独仏年誌』(Franco-German Annals)を出版し、500ターレルの収入を得た。 1843年6月イエニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚すると、11月にパリへ出発した。 1844年5月1日、長女イエニーが誕生した。この時期、マルクスは、ハインリッヒ・ハイネとも知り合い交際した。 『独仏年誌』は2号で廃刊になったが、プロイセン王国枢密顧問官で外交使節としてたびたびパリを訪問していたアレキサンダー・フォン・フンボルトのフランス政府への働きかけにより、1845年1月ベルギーのブリュッセルへ追放された。 1847年、長男エドガー誕生した(8歳で死亡)。 1848年2月のフランス二月革命のため3月3日に警察に夫婦とも抑留され翌日パリにもどる。 次男ヘンリー、長女フランチスカ誕生するも1850年末に死亡する。また娘エリノア、ラウラも誕生する。 1851年からマルクスはニューヨーク・トリビューンの特派員になり、1862年まで500回以上も寄稿した。ロンドンで結成された第一インターナショナルの存在を知るや、遅ればせながら参加し、バクーニンと主導権争いを演じた。 1871年のパリ・コミューンに際しては、『フランスの内乱』を書き、のちにも革命後社会のイメージとして大いに影響されていた。他方で「なぜヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」とパリ・コミューンを批判してもいた。 パリ・コミューン以降は『資本論』の執筆に専念し、数百にも及ぶレポートで書きつづけた。 1881年12月2日妻イエニー死亡。資本論第一巻を出版した。 1883年3月14日、自宅の肘掛け椅子に座ったまま死去。膨大な草稿を残していた。 エンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として残されている。 没後に残された草稿に基づいてエンゲルスが1889年に『資本論』第二巻を編集・出版し、1894年に第三巻を編集・出版した。

宗教観

初期の著作『ヘーゲル法哲学批判序論』に「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である。」とあるが、この文章は、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあるハインリッヒ・ハイネの1840年の著作『Ludwig Borne iv(ルートヴィヒ・ベルネ)』中の「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」から引用したものと思われる。 なお、この"阿片"については『ヘーゲル法哲学批判序論』に、痛み止めである旨の記述もある。当時の阿片は緩和医療での疼痛などの痛み止めとして使用される一般的な医薬品であり、文中ではこの意味で"阿片"の語句が使われていた。確かに中毒を引き起こす「麻薬」として当時も利用されていたが、決してその面を強調したものではなく、また今日のように製造販売の禁止はされていない。 自身はフォイエルバッハから影響を受けて無神論的になり、青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の主張を敷衍し、「歴史の形成原理は宗教的理念ではなく下部構造、すなわち労働にある」と考えた。 とはいっても「神が人類および人間自身を最高たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人間にもっともふさわしい。そして人間が人間自身と社会とを最もよく高めることができるような立場を社会の中でえらぶことを人間にゆだねたのである」(マルクス・エンゲルス全集40巻515~519頁)としている。 自らが棄教したユダヤ教を「ユダヤ教の本質は私利である」といっている。

資本論

マルクスは資本主義の矛盾や問題点に目をむけて研究を進めていたが、資本主義そのものは社会の生産性が高まる必要な時期と捉えており、資本主義が成熟し、やがて共産主義へと移行すると考えていた。 そのため資本主義の成熟を経ていないロシアがソビエト連邦を建てることへの異議は当時から多かった。 また、資本主義の成熟を見ていないという点は当事者であるボルシェビキも自覚的であったために(実際には先進国での革命が相次ぐと期待していたために)、メンシェビキら政敵やドイツ社会民主党に批判されるという点でも、新政策立案の条件においても、悩みの種であった。 資本主義の成熟の果てに社会主義が可能になるという条件は、一連の社会主義国がそのシステムの運用に失敗した理由の一つとして最も挙げられることの多い点である。


参考元

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9

http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_marx_intro.html


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成