自由の女神像(アメリカ)
出典: Jinkawiki
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完成と大きさ
「自由の女神」は1886年 アメリカ合衆国の独立100周年を記念してフランスから友好の証として贈られた。高さ48.05メートル、重さ225トン。右手にはタイマツ、左手には独立宣言書を持っており、ローマ数字で「1776年7月4日」(アメリカ独立宣言の日)と書かれている。左足は一歩踏み出され「鎖」を踏みちぎっている。良く見ると力を入れる為に体をよじっている事が分かる。王冠には7つのとげがあり、「世界に自由が広まる」という意味を込めて世界の海と大陸を表している。
像のモデルは製作者であるフランス人バルトルディ(Frederic-Auguste Bartholdi)の母が顔、妻が手とされている。製作にはエッフェル塔で知られるエッフェルも関わっている。1884年にフランスで完成されたが、分解され軍用輸送船でアメリカに運ばれ2年の歳月を掛けて完成され、10月28日に除幕式が行われた。
像は銅製だが、内部は鉄柱による骨組みで支えられている。像の中は螺旋階段になっていて冠部分には30名程が入れる展望台になっている。しかし現在はアメリカ同時多発テロの影響もあり観光客が上がることのできるのは台座頂上部の展望台まで。
台座部分はアメリカ国民の献金によりアメリカのR.M.ハント(Richard Morris Hunt)によって設計され、また、移民の歴史博物館にもなっており、エマ・ラザラス(Emma Lazarus) の「新大国(The New Colossus)という14行の詩が刻まれている。
アメリカの独立とフランス
イギリスがアメリカの東海岸一帯に13の植民地を建設し、入植者と現地先住民との間にはいさかいが起こったためイギリス本国は、1万の兵を駐屯させた。駐屯には大変な費用がかかるので、イギリスは植民地でのみ印紙税を課し、その税収を駐屯費に当てた。 ところが、それは差別的だと植民地の議会が反発し本国並みの扱いを求めたところ、本国が許さなかったため、アメリカへの入植者たちはイギリス本国からの品物を買わない運動を起こした。そして、イギリス国内の商人がこれでは商売にならないので、政府に圧力をかけ印紙税を廃止させた。 しかし今度は本国は関税を強化したため、植民地の自主性が失われたと抗議し、市民が立ち上がった。これをイギリス軍が押さえにかかったのが戦争の始まりだった。1770年のことだった。 戦闘はだんだんエスカレートし、1776年6月のニュージャージーに到着したイギリス本国軍は、総勢3万2千。その中にはドイツ人の傭兵もいた。これを迎え撃つ植民地軍は2万。植民地軍は劣勢が続いた。ただ、イギリス本国のジョージ3世には忠誠を抱く人が多く、独立を希望する人は少なかった。大英帝国の領地である感覚の方が入植者達にはしっくりきていた。 ところが、トマス・ペインが「コモン・センス」という本を出版し、その中で「イギリスは植民地の繁栄に寄与していない」と独立を支持すると世論が高揚し、ついに13植民地は独立を宣言したのだった。これが1776年7月4日だった。 だが、その後アメリカ軍の劣勢は続いた。しょせん、軍事的には世界に冠たるイギリス軍に勝てるわけがなく、敗戦と新国家の崩壊は目前だった。アメリカ軍は衰弱し3千。 ところが、ワシントン率いるアメリカ軍はイギリス軍のドイツ傭兵900を捕虜にし、本隊を撃破し出した。この兵力でこの勢いを見たフランス軍が勝てると踏んで、アメリカ軍に味方したのだった。フランス軍は海上を封鎖しイギリス軍を弱体化しようとしたが、イギリス軍には劣り後退。 そこに現れたスペインは、フランス側に立ち形勢が一挙に逆転した。フランス海軍はスペインのイギリス領ジブラルタルを攻撃し、これを守ろうとイギリス海軍がアメリカの封鎖状態をおろそかにした隙にフランス海軍がアメリカ沖に進み決戦となった。米仏軍がイギリス軍をヨークタウンで包囲し、1781年イギリス軍は降伏した。 イギリス本国では反戦運動が起こり、ついにイギリス議会はアメリカの独立を承認する事になった。 なぜ、フランスが味方になったかというと、イギリスに対する怨念があったからである。アメリカはイギリスの植民地だったわけだが、アメリカを植民地にしたかったのはイギリスばかりじゃなかった。実はフランスもアメリカに植民地を建設していた。 そこでフランスとイギリスは戦いになり、フランスが負けたのだった。フレンチ・インデアン戦争という悲惨な戦争で、イギリス正規軍と植民地軍が組み、これに対してフランス軍と先住民族インデアンが組んで戦った。 最初はフランス連合軍が優勢だったが、イギリス正規軍の優秀な将軍の作戦で、フランス軍最後の砦モントリオールで降伏させられた。1760年の事だった。 1763年のパリ条約でフランスは北アメリカの全領土を失った。それを1783年のパリ条約でアメリカの独立を承認させたのだ。20年間に及ぶ敵討ちがそこにはあった。 イラクの戦争では、フランスがドイツとともに戦争に反対し多くの国の支持を得た。一方、アメリカ、イギリスとスペインは戦争突入に走った。
参考引用文献 自由の女神
「アメリカとフランスの革命」 五十嵐武士, 福井憲彦著 中央公論社, 1998年