華族

出典: Jinkawiki

2009年8月9日 (日) 19:23 の版; 最新版を表示
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目次

華族とは

明治維新直後につくられた制度であり、78年ほど存在した。太平洋戦争後の1947年、日本国憲法の施行によって消滅した特権的な上流階級である。誰が華族になれたのかの原則は一定しておらず、華族たるべき資格は曖昧で時期によって異なる。一般に華族は「皇室の藩屏」と言われ、つまり「天皇家を支える人々」であった。しかし、その実態は単純ではなく、貴族院議員として国政に参加していたことは知られているが、華族全員が貴族院議員であったわけでもない。

華族の始まり

始まりは1869年6月17日である。華族設置の意味は公卿と諸侯、つまり朝廷の公家と版籍奉還した藩知事とを一体化したことにある。これは前年の五箇条の誓文に起因し、王政復古を徹底するにはまず、「官武」(公卿と武家)の別を撤廃する必要があったのである。この日、華族として認められたのは427家。公卿は142家、諸侯285家であった。一般に公卿から列せられた者は「公家華族」、諸侯から列せられた者は「武家華族」と呼ばれた。1884年7月7日、華族例が制定される。これにより華族は新たに維新に大きな活躍があった人々が組み込まれ、また、公・侯・伯・子・男と序列化されるようになる。そして華族の特権・義務などが規定され、華族制度は完成する。

特権・義務

【特権】

まず儀式めいたものとして、宮中三殿の一つで、三種の神器が安置してある賢所に参拝することができた。外国旅行に際しても願い出れば許された。また、三大節(後の四大節)に際して天皇との食事をすることが可能だった。政治的には、貴族院議長職は代々華族が選ばれ、副議長も多くは華族あった。天皇が一泊以上の旅行をする場合の侍従、賢所御祭典の代拝などは華族が担うことができた。つまり、天皇身辺の公務や私的雑務などを優先的に任されたのである。

【義務】

1.皇室および国家えの忠誠

2.男子相続

3.女系相続の排除

4.養子などの家督相続人の身分制限

5.叙爵者の一家創立

6.宮内大臣の監督に服する

7.婚姻などにおける宮内大臣の事前認許

8.特定事項についての届出

9.系譜の提出

10.男子華族の長期義務教育

11.家範を守る

12.子弟を軍人とする

肥大化する華族

1885年に廃校になった陸軍予備士官学校に象徴されるように、華族子弟の軍人化は進まなかった。しかし、改めて華族の軍務従事の責任と義務を促す傾向が出てくる。軍事教育を徹底することで、華族子弟たちの軍務への関心や協力を高めようとしたのである。こうした教育もあっってか、華族たちの軍事協力も徐々にではあるが盛んになっていった。そして、日清・日露戦争後は大量叙爵となった。その中で特に目をひくのは、東郷平八郎海軍大将である。多くが男爵で、数名が子爵というなか、ただ一人、伯爵を叙爵している。日清・日露戦争で華族となった陸海軍軍人は115名におよび、男爵は110名になる。このことは、公・侯・伯・子・男の構成比を大きく崩し、貴族院における伯・子・男爵議員の定数問題となった。また、陸海軍人の大半が薩長出身者であり、軍人華族の増大は貴族院における薩長閥の勢力拡大ともなった。軍人の華族化と比べると数は少ないが、財閥を中心とした資産家や学者、芸術家など多岐にわたった。


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