ポル・ポト政権

出典: Jinkawiki

2009年8月10日 (月) 13:28 の版; 最新版を表示
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ポル・ポトの経歴

1925(28説もある)~98

カンボジアの政治家、民主カンプチア政府首相(在任1976~79)

カンボジア中部の地主の家に生まれ、1949~53年のフランス留学中に共産党に入党する。帰国後1963年にカンボジア共産党書記長、75年には親米ロン=ノル政権を倒して、翌年民主カンプチア(民主カンボジア)の首相となった。親中国路線で農村に基礎を置く社会主義建設をめざしたが、都市と貨幣の廃止、集団農場での強制労働などの極端な政策と反対派の粛清により、100万人以上が犠牲になったといわれている。1979年には反中国のベトナム軍とヘム=サムリン派により首都プノンペンを追われた。以後は山岳地帯拠点に抗戦したが、1993年のカンボジア王国の成立以降は勢力の内部分裂が進行する中、98年にタイ国境近くで病死した。


ポル・ポト政権の概要

首都プノンペンに住む、200万人を超える市民を強制的に退去させ、農村で働かせる


都市で生活していた高額所得者(経営者や金融関係者)、知識人層(医者、教師、ジャーナリスト、役人、技術者)は、西洋的な都市における物質的豊かさ(他に外国語の使用、西洋医学、知の正当性、私的所有)を享受していた人たちである。そうした人々は新しい国づくりの邪魔になる、また知識人階級は「反乱を起こす可能性がある」とされ殺害された。


信用できるのは新カンボジアを作ろうとしてきたカンボジア共産党員(クメール・ルージュ)とその支持者、そして過去の記憶を持たない無垢な子どもたちのみとされた。大人は西洋文明に侵された、社会に害のある存在とされる。そのため子どもたちは自分の親から引き離されて育てられた。真の親はその地域のカンボジア共産党幹部(オンカ)とされた。


市場経済の廃止、寺院・学校の廃止(教育は生産労働の中から生まれるものとされ、内容は、労働と政治教育に限られていた。)西洋文明(自動車、テレビ、ラジオ、靴、医学、近代住宅)は否定した。

古き良きカンボジア独自の質素で堅実な自給自足の農村生活を行うべきであるとされた。


クメール・ルージュ


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