ウィリアム・スミス・クラーク
出典: Jinkawiki
ウイリアム・スミス・クラークは1826年6月、アメリカ・マサチュウセッツ州アッシュフィーで生れました。1848年にアマスト大学を卒業後、ドイツのゲッチンゲン大学に留学し鉱物学と化学を学び、1852年に隕石の組成に関する論文で学位をとりました。その後、故郷に戻り母校で数年間働きました。彼は生粋のピューリタンとして行動し、政治的には根から共和党員でした。南北戦争の時は教授職を辞し、軍役を志願しマサチュウセッツ21連隊の大佐となりました。ペンシルバニアのアンチェタム川付近の南軍との戦いでは、北軍ニューヨーク連隊が敗色が歴然となった時、クラーク大佐の連隊がかけつけ勇敢に戦い南軍を退けた等など、彼の能力と武勇は高く評価され、陸軍准将に推挙されましたが彼はそれを断り、それから2年間の軍務を果たし退役をしました。その後マサチュウセッツ州立農科大学の設立に関係し1867年同大学の学長となりました。また、アマスト大学は彼の植物の樹液の循環に関する科学実験を認め名誉博士号を贈りました。 明治政府は北海道に開拓使を置き、その初代長官に陸軍中将黒田清隆を任命しました。彼はアメリカを訪れしばらく滞在し、新しいアメリカ文化の精神に深く影響されて帰国しました。そして北海道開拓の構想をアメリカのシステムでやることに意欲を燃やし、さまざまな事業の助力者としてアメリカ人の専門家を雇いました。将来の開拓事業の指導者となる青年を養成する必要性を感じ、アメリカ・ワシントンの吉田公使に大学教育に経験を持つ人材を探すよう依頼した。そしてクラーク博士が指名され、黒田長官の要請に応じて来日する内諾が得られました。1876年クラーク博士50才の時、彼と日本政府の協定がなされ、黒田長官が立案の専門学校設立と運営のために日本に来ることになりました。彼はその目的の為に1年間の休暇で事足りるとし、同年6月に2人の教授を従えて来日しました。 新しい学校は第1期生16名の学生で9月に始まり、彼は初代教頭(事実上の学長)に就任しました。日本のスタッフが考えていた規定や規則を聞き、それを笑い飛ばし「こんな規則や取締りで人間を造ることはできない」と、直ちに破棄させその代わり「Be gentleman」の2語だけを与えると云いました。学生達は紳士として扱われることを知り破目を外したがる青年達も自重するようになりました。黒田長官はクラーク博士に学生達に高い道徳教育を依頼したところ、博士は「私はキリスト教によらずして道徳を教える術を知らない」と答え、長官は「その宗教は国禁なのだ」と応じ両者相譲らずこの状態が続いていました。ある日、黒田長官は学校を視察し学生の態度と学力を自分の目で見て大いに満足し、クラーク学長に「今後あなたが大ぴらでなくおやりいただくなら、あなたの良しと信ぜられる如何なる道徳教育をされても構いません。きっと、あなたは私がまさしく期待するような人材を育て上げてくれるでしょう。」と云われた。次ぎの日曜日からキリスト教による日曜学校が始まり、自分が体験された色々な出来事について興味深い話しをし、青年の心に本で道徳を教えられるより、遥かに深い印象を与えるものでありました。クラーク博士の授業は全て英語で行い、学生がノートに筆記をしていました。そして博士は一人一人のノートの誤りを注意深く直し、これに多大の時間を要しました。また学生をよく原野、森林、山に連れ出し動物学、植物学および鉱物学を現場で教えました。 1877年4月クラーク博士は任期を終えアメリカに帰国することになりました。学生と職員達はクラーク博士を馬に乗せ、札幌本道の島松駅逓まで見送りをしました。博士は馬を下りてしばらく休みをとり、見送りにきた人々と握手をし、再び馬上の人となり片手に手綱をとり、残る手に鞭をとり、振返りながら声高く叫びました。‘Boys be ambitious like this old man(少年よこの老人の如く大志を抱け)’、博士は馬に一鞭くれ真すぐに走り去りました。そして、熊本に寄り薩摩の反乱軍を鎮圧するため戦場で指揮をしている黒田将軍に会い別れを告げるつもりで北海道を離れました。日本より帰国したクラーク博士は、ウッドラフ氏が計画した洋上大学の立案に参加しましたが資金の提供者が少なく、また鉱山会社を起こしましたが、これも資金の確保が出来ず多額の借金を抱えて倒産しました。失意のため健康を害し博士は1886年60才で亡くなりました。その死に臨んで「天の神に報告できることが一つだけある。それは札幌における8ヶ月である。」と語ったと云われています。クラーク博士より直接教えをうけた1期生達により、その精神は継承されていきました。特に2期生には、自由平等博愛の精神を持ち、国際連盟事務次長となった国際人新渡戸稲造、徹底した平和主義者で多くの人々に思想的な影響を与え、札幌独立教会を創設した思想家の内村鑑三、世界的な植物学の権威者となり多くの植物学者、藻類学者を育て、北大付属植物園を創設した宮部金吾など著名な人材を出しました。
<参考文献> 北大総合博物館が作成した「北海道大学に通底する精神と教育思想の歴史」