カストロ

出典: Jinkawiki

カストロ 正式名はフィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス 1926年8月13日生まれ。1945年にハバナ大学に入学し法律を学ぶ傍ら、政治活動に参加し学生活動も行う。卒業後は弁護士になり、貧困者を救う中1952年に選挙に出馬。しかしフルヘンシオ・バティスタのクーデターにより選挙の結果は無効になってしまう。これに憤慨したカストロは裁判所にバティスタを告発したが認められなかった。

キューバ革命 選挙結果を無効にされ、現在のバティスタ政権の独裁に憤りを感じたカストロは、同士100余名と共にクーデターを起こす(1953年7月26日)。多くの仲間が殺される中、カストロは逮捕され懲役15年の刑を言い渡される。しかし、2年後に恩赦によって釈放され、キューバに亡命する。そして、1956年12月に80余名の仲間を従えキューバのバティスタ政権に再戦を挑む。 上陸時に多くの仲間を失い、10名余りに減った組織で山中にこもりゲリラ戦を展開していく。このカストロの「7月26日運動」と呼ばれた運動を多くの国民が支持し、10数名だった部隊は2年で数百人の部隊に膨れ上がった。また、バティスタより派遣された多くのキューバ国兵士の軍務放棄も手伝い、この革命運動は加速していく。 そして1958年12月31日、新年を祝う祝賀会に出席していたバティスタは突如自らの辞任を表明。日の明けた1959年1月1日には飛行機で国外に逃亡する。官僚らが臨時政府を宣言するもカストロはこれを認めず、首都バハナへの突撃を命令する。 バティスタが逃亡して数日後、カストロがハバナに入り、キューバ革命は成功を収める。

キューバ危機 革命成立後、カストロはすぐにアメリカ企業の国有化をはかり、アメリカとの関係は急激に悪化していく。数々の暗殺計画もゲリラ戦時代の経験から回避し、すべて失敗に終わる。 しばらくして、アメリカがキューバに対し経済制裁を始める。バティスタ政権時代から多くをアメリカに依存していたキューバには深刻な経済危機を迎える。そこでカストロは当時東西冷戦でアメリカと敵対関係にあったソ連と友好関係を結び、多くの軍事的、経済的援助をえる。この時、自らの理想に反するとして、革命時代からの戦友チェ・ゲバラが政権を去る。 1962年にソ連がアメリカへの敬遠のため、キューバに核ミサイルを設置した。このことが、キューバ危機の始まりとなる。

参考文献: 「カストロの生涯」 http://castro7015.web.fc2.com/index.html 「9031 ハバナの都市史:キューバ革命まで : ハバナ都市史研究(1)(建築歴史・意匠) 」 伊藤 毅 , 尹 世遠 , 石渡 慎一 , 宇野 悠里 , 岩本 馨


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