コソボ紛争
出典: Jinkawiki
紛争勃発までの経緯
コソボ問題は、ユーゴ領内コソボ自治州における多数派アルバニア人と少数派セルビア人との間の自治権をめぐる対立に端を発し、旧ユーゴ崩壊の直接の契機ともなった。コソボでは戦後セルビア人優位の時代が続いていたが、68年に最初の自治権拡大の要求がアルバニア人側から出され、74年の憲法改正で共和国とほぼ同等の権限を持つ自治州となった。チトー大統領死去(80年)の翌年に反セルビアの民族主義運動が再び起きたが、連邦治安警察の出動で一旦は沈静化した。しかし、両者の対立は水面下で続き、多くのセルビア人がアルバニア人からの圧迫を受けて州外に流出する事態が生じていた。このとき「セルビア人の保護・救済」という民族的主張をかかげて86年に登場したのが、現ユーゴ大統領ミロシェビッチであった。そして、89年にセルビア共和国憲法を改正してコソボの自治権を剥奪し、旧ユーゴ崩壊をはさんで約10年間、今度は逆にアルバニア人が抑圧される状況が続いていた。こうような抑圧状況に反発する形で、アルバニア人側はその要求を自治権の復活から完全独立の達成へと次第に強めた。そして、平和路線をとるルゴバ氏が率いるコソボ民主同盟が現状打開に行き詰まる中で、武装路線をとるコソボ解放軍(KLA)の軍事活動が97年後半から98年にかけて活発化するに至った。特にKLAの拠点であったドレニツァ地区における、98年2月末からのセルビア治安部隊による「掃討」作戦の実施によって、アルバニア人側に婦女子を含む多くの犠牲者が出たため、一挙に両者の間の緊張が高まり内戦的状況にまでエスカレートした。コソボでの状況の悪化との関連で注目されるのが、98年2月22日と同年6月末にコソボを訪問したゲルバート、ホルブルックの両米特使の動きである。前者はKLAを「テロ組織」と非難してセルビア側のKLA掃討作戦を結果的に発動させ、後者はKLA幹部と会見して米国の政策転換を知らしめた。その後、98年7月までKLAが支配地域を拡大して優位に立つが、セルビア側が本格的反撃に転じた夏以降はKLAが追いつめられた。この様な戦況の変化を受けて、ホルブルック米特使が同年10月に、NATO空爆の脅しを背景にミロシェビッチ大統領と再び交渉し、ユーゴ連邦軍・セルビア治安部隊の削減・撤退、国際停戦監視団の受け入れ等を含む停戦合意がようやく成立した。
現状と展望
NATO空爆は、結局、ロシア、フィンランドの仲介等を通じた新たな和平案をユーゴ側が受け入れ、改めて出された国連決議に基づいてコソボからユーゴ連邦軍、セルビア治安部隊・民兵等が撤退を行うことで6月10日にようやく停止された。NATO側の「完全な勝利」もセルビア側の「民族浄化の完成」も現実的には不可能であり、最終的には、政治交渉による解決が唯一の選択肢となった。その意味で、「NATOの戦争」は「戦略(出口)なき戦争」として始まり、「勝者無き戦争」として終わったといえる。現在のコソボは、民族共生からはほど遠い状況であり、「混迷」の一言に尽きる。コソボの現状は、軍事力では複雑な歴史的背景と利害対立が絡む民族問題を根本的に解決することはできない、ということをよく示している。NATO空爆は確かにアルバニア系住民の帰還を実現した。だが、多くの人命の損失と大量破壊をもたらしたばかりでなく、コソボの住民相互に深い不信と憎悪を生じさせた。その結果がNATO軍主体のコソボ平和維持部隊(KFOR)進駐後に起きて現在も続いている、KLAやアルバニア系住民による「逆の民族浄化」であった。国際社会は、秩序回復と経済復興を早期に達成することはおろか、コソボ地域の住民自身による自治の実施への目途も立てられないという現状を前に、大きなジレンマに陥っている。それでは、国際社会は一体、どのようにしてコソボの政治的地位を最終的に確定し、民族共存の実現をはかるべきなのか。今となっては、即効かつ万能の解決策を示すことは非常に困難である。現時点でコソボでの強者であるアルバニア系住民側がより自制して寛容の精神に立ち戻る(公平で中立的な教育・報道が何より重要)と同時に、国際社会がより公平かつ長期的な視点で紛争解決に粘り強く取り組んでいくこと、特にNATO諸国が自らの一方的な正義や二重基準を根本的に見直すことが求められている。最後に、NATOによるユーゴ空爆を「21世紀の戦争」の常態としないために国際社会は、「米国(あるいはNATO)の正義」が必ずしも「普遍的な(国際社会の)正義」ではない、という常識を再度確認する必要がある。ユーゴ空爆でNATO軍の前方展開基地・出撃拠点としての役割を負わされて「国連憲章違反の侵略戦争」に加担させられた、独・伊両国は、明日の日本の姿でもある。NATOによるユーゴ空爆から何を「教訓」として学ぶのかが今わたしたちに問われている。 HN:sakura
参考文献
「ヨーロッパの周辺事態」としてのコソボ紛争