ジョージ4世
出典: Jinkawiki
ジョージ4世
イギリス、ハノーヴァー朝の国王(在位:1820年 - 1830年)。ハノーファー王国の国王(ゲオルク4世)も兼ねる。父はジョージ3世、母はその妃シャーロット。妃はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルムの次女キャロライン。
略歴
ジョージ3世がポルフィリン症の再発で狂気に陥ったため、1811年から1820年までは摂政王太子を務めた。この時期の大きな出来事としてはナポレオン戦争での勝利がある。ジョージ4世は強硬な君主として知られ、父ほどではないがしばしば政治に介入した(特にカトリック解放に関する問題など)。当初は首相スペンサー・パーシヴァルと対立を繰り返したが、パーシヴァルが暗殺されると、その治世の大部分は、リヴァプール伯ロバート・ジェンキンソンが首相として国政にあたった。
皇太子時代の素行は非常に悪く、王室費の半分に相当する額と同じ金額の借金をこしらえ、父の精神障害の原因とさえも言われた。1788年にサートーマスで王族として初めてダービー(第9回)に優勝するも、1791年に八百長事件(エスケープ事件参照)を起こしたりしている。キャロライン王妃との間に唯一シャーロット・オーガスタ王女をもうけた。シャーロットは1816年、のちにベルギー国王となるザクセン=コーブルク=ザールフェルト公子レオポルドと結婚したが、翌1817年に男子を死産して間もなく死去した。
スコットランド行幸
ハノーヴァー朝が始まって以来、ステュアート家発祥の地であるスコットランドを訪問した国王はいなかった。1821年の戴冠式の後、アイルランドとハノーファーを訪問して歓待を受けた王は気を良くし、スコットランド行幸を思いついた。1822年夏、海路でスコットランドに到着した王は、ホリールードハウス宮殿で氏族代表を接見するとき、民族衣装キルトで出席した。この演出で見事に氏族の積年の恨みを氷解させ、「ジョージ王は我ら氏族の総代表である。」と爆発的な人気を得た。この時以来、現在も王家がバルモラル宮殿など、夏の休暇をスコットランドで過ごすとき、キルトを着用するようになった。
外国から授与された勲章
オーストリア帝国:金羊毛勲章(1814年)、レオポルト勲章、ロンバルディア王冠勲章、聖シュテファン勲章
オランダ王国:ウィレム勲章
スペイン王国:金羊毛勲章、カルロス3世勲章
ナポリ王国:フェルディナンドおよび功労勲章(1816年)
フランス王国:聖霊勲章(1814年)、聖ミッシェル勲章
プロイセン王国:黒鷲勲章、赤鷲勲章
ポルトガル王国:塔および剣勲章、キリスト・聖ディエーゴ・聖ベネディクト三重勲章、聖ディエーゴ勲章
ロシア帝国:聖アンドレーイ勲章(1813年)、聖アレクサンドル・ネーヴスキ勲章、聖アンナ勲章
など多くの勲章を授与されている。
参考文献
君塚直隆『ジョージ四世の夢のあと ヴィクトリア朝を準備した「芸術の庇護者」』
ウィキペディア