ソクラテス

出典: Jinkawiki

<概要>

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、神官から「最も知恵のあるのはソクラテスである。」とアポロンのお告げがあったといわれた。何も知らない自分がなぜ知恵があるのか悩んだソクラテスは当時賢いと言われる人たちを訪ねて対話した。その結果として「何も知らないということを知っている。」(無知の知)という考えにいたった。そのことで恥をかかされたと思った人々から公開裁判をされて有罪となり「悪法も法なり」として自説を曲げずに毒を飲んで刑死した。ソクラテスは徳のある生き方が幸せなのだと考えた。社会の規範として道徳に収まらず、徳を研究する姿勢があった。そのことがソクラテスの生きていた社会には受け入れられなかった。 また彼自身は著作を行わなかったため、その思想は弟子のプラトンや歴史家のクセノポン、アリストテレス等の著作を通じて紹介されている。

<死刑までの経緯>

ソクラテスは当時賢人と呼ばれていた人々や通りすがりの若者を次々にたずね「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を知るために対話を行った。しかし、ソクラテスのこの行動は相手の考えを向上させることができる対話であったが当時の賢人たちは「常識」に執着したため、結局「知っていると言っていることを、実は知らないのだ」ということを暴くことになった。相手は論破され恥をかかされたとしてソクラテスを憎むようになった。 このため「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」等で公開裁判にかけられることになった。原告はメレトスという人物で、政界の有力者アニュトスらの後ろ楯と見られる。告訴の背景には上記の他にもペロポネソス戦争とその後の暴政など複雑な事情があったと考えられる。 ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自分の行為を反省したりすることを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。 神事の忌みによる猶予の間にクリトン・プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたがこれを拒否。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが自身の知への愛(フィロソフィア)を貫き死を恐れずに殉ずる道を選んだ。 紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わして毒ニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。この顛末は弟子であるプラトンの著作『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』に詳しく書かれている。 他人の無知を指摘することは簡単であるが言うまでもなく人間は世界の全てを知る事は出来ない。ギリシアの哲学者ソクラテスは当時、知恵者と評判の人物との対話を通して、自分の知識が完全ではない事に気がついている、言い換えれば無知である事を知っている点において、知恵者と自認する相手より僅かに優れていると考えた。また知らない事を知っていると考えるよりも、知らない事は知らないと考える方が優れている、とも考えた。 なお、論語にも「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という類似した言及がある。

参考文献 「中学総合的研究社会」旺文社      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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