プラハの春

出典: Jinkawiki

目次

概要

チェコスロバキアにおいて1968年に起こった運動。チェコ事件ともいう。プラハはチェコの首都でら中世の歴史的建造物が多く残っている。

背景

1948年チェコスロバキアでは二月事件で共産党政権が成立し、チェコスロバキア社会主義共和国となってから、スターリン批判の受容が遅れて党改革が行われず、1960年代からは経済面での停滞から成長の低下が問題となってきた。特に文学者が知識人、学生の中から民主化と自由化を望む声が強まり、民主化運動による政府批判が高まった。改革派のメンバーのドプチェクは保守派に代わり第一書記になる。「人間の顔をした社会主義」と呼ばれる社会主義を否定するのではなく、社会主義により民主主義を目指す政策を掲げた。これを受けてチェコスロヴァキア内の議論はまさに百花斉放を様相を呈し、新たな政党の結成の動き現れ、首都プラハの町にはミニスカートなどの西欧風の諸文化が大量に開花した。また6月には70人あまりの知識人が署名して「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線を強く支持し、旧来の体制に戻ることに強い反対が表明された。これら1968年春の一連の自由化の爆発を「プラハの春」と言っている。  すると、この改革の影響が自国にも及ぼしてくるのではないかと懸念するソ連、同盟諸国が批判をした。同年8月21日、ワルシャワ条約機構諸国が改革を阻止するために軍事介入を決行。旧ソ連軍がヴァーツラフ広場に戦車を乗り入れ占拠し、ドプチェクらを連行した。 これを「チェコ事件」と呼ぶ。学生ヤン・パラフはこれに死をもって抗議したものの、この事件によりチェコスロヴァキアの自由への革命「プラハの春」は実ることなく終結してしまった。

影響

1989年、旧チェコスロヴァキアにおいて民主化を求める学生のデモが発端となり、共産党政権が崩壊した「ビロード革命」が起こった。そしてチェコスロヴァキアは本当の自由を手に入れた。「プラハの春」以降、脈々と流れていたチェコスロヴァキアの人たちの自由を求める活動がようやく報われた。1993年1月、市場経済の移行政策や連邦政府との権限配分などをめぐってチェコとスロヴァキアは対立し、連邦を解消してそれぞれ独立国家となった。それ以降、1995年に経済協力開発機構(OECD)加盟、1997年に北大西洋条約機構(NATO)加盟、2004年に欧州連合(EU)に加盟し、チェコ共和国の西側化は一気に進むことになった。

参考文献

チェコ日記: https://ameblo.jp/treasure37-705/entry-10675821876.html 世界史の窓: http://www.y-history.net/appendix/wh1604-027.html

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