古事記1

出典: Jinkawiki


 8世紀、初めには『古事記』を「ふることぶみ」と読むのが自然だった。これは、「古くから伝えられたことを記したもの」とシンプルにとらえることができるがこの書が単なる伝承の記録ではなく、王家の歴史を伝える特別なものであることを示したかったのではないかということから、この署名は「こじき」と読んで、固有名詞として扱うのがふさわしいと考えられる。また、『古事記』は、国内に向けて、天皇家の神聖性とその支配の正統性をアピールするために作られたものと考えられる。  天武天皇の世、当時、皇室の系譜や神話、伝承を記した書物はあったが、さまざまな虚偽があり、歴史書としての価値に疑問符がついていた。そこで、天武天皇は歴史書を編纂しなおしたいと考え、「古事記」の編纂が始まったのである。しかし、これは表向きのことで、諸豪族に、「天皇家に都合の悪い記述」を自分の目の黒いうちに削除したいといった意図も考えられる。編纂に関わったのは太安万呂と稗田阿礼の二人である。なお、太安万呂は1979年にその墓が発見され、実在が確認されているが、稗田阿礼については謎の部分が多く、性別すら分かっていない。  『古事記』の編纂作業は、まず天武天皇がそれまでの史書「帝紀」「旧辞」を稗田阿礼に読み習わせたところからスタートし、この段階で天武天皇の視点による内容の整理はある程度、行われていたとみられる。しかし、その後天武天皇の崩御によって『古事記』の制作はいったん中断した。  そして、711年、43代元明天皇がようやく太安万侶に、天武天皇版の史書を献上することを命じ、これを受け、稗田阿礼が口述する「帝紀」「旧辞」を太安万侶が筆記し、編纂が再開された。ついに、712年に『古事記』の上・中・下が完成した。  上には、神代から推古天皇の代までの歴史の大筋や天武天皇による歴史書の編纂作業、元明天皇の詔に基づく『古事記』完成までのいきさつが書かれている。  中には、初代神武天皇から15代応神天皇までの記事、下巻では仁徳天皇から33代推古天皇までの記事が書かれている。  


参考文献:図解雑学 「古事記と日本書紀」 武光誠 著      日本史 図解で分かる時代の要点 須藤公博 著


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