太田道灌
出典: Jinkawiki
太田道灌は中世に活躍した武将。文武両道に秀でた武将として有名である。主君扇谷上杉氏の家臣として忠誠をつくし、道灌とその父道真とともに江戸・岩槻・河越場の築城に携わった。文明八年に起こった長尾影春の乱では目覚ましい活躍を示した。
太田道灌は幼少のころから鎌倉五山で学問にはげみ、万里集九や円覚寺の学僧たちと交流して歌会などを催した。この好学ぶりは父道真の影響の物と思われる。しかし道心はその実力をおそれた主君扇谷定正によって文明十八年、道灌は相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)の館で謀殺された。康生元年、扇谷上杉氏と政治的に成立していた公方足利成氏が下総国古河に本拠地を移した。そのため、対抗する城として河越城が築城された。同時期に江戸城、岩付城も築城され、河越城は扇谷上杉氏が居住する城という役割を果たした。
築城初期の河越城には、太田道真が居住していたと考えられ、『太田道灌状』は父道真が扇谷上杉氏とともに河越城にいた事を示している。また文明二年には、太田道灌が河越城で連歌師心敬・宗祇などを招いて『河越千句』として知られる連歌会を催している。これらの事から河越城と太田道灌と強く結びついていた。
参考文献 埼玉県人物小百科 図説川越の歴史