御成敗式目

出典: Jinkawiki

武家社会の道徳や習慣というものは、公家社会のそれとは異なる場合が多く、昔から武士たちは「律令・格式」という公家のための法ではなく、自分たちの判断基準によって裁判を行ってきた。この基準を「道理」とか「先例」と呼び、源頼朝が鎌倉幕府を開いてからも、御家人たちの論争や紛争、この基準によって裁かれてきた。1221年、承久の乱の勝利によって幕府が全国政権になったこともあり、執権の北条泰時は支配体制の再整備を開始した。

そして、幕府への訴訟要求が急増し、公平な裁判基準の設置が急務となったので、「道理」や「先例」を整頓し、1232年、武家の成文法たる全51カ条の『御成敗式目』(貞永式目)を制定したのである。もちろん適用範囲は、幕府の支配地と御家人に限られた。以後、これが武家の根本法典となった。


・御成敗式目の要点

①御成敗式目は貞永元年(1232年)に制定されました。はじめは35条までが作られ、そのあと付け加えがあり、全部で51カ条になりました。 *51という数は聖徳太子が作られた十七条の憲法の3倍数にしたと言い伝えられています。

②御成敗式目は写しが作られた後、各国の守護を通して全ての地頭に配布されました。したがって、全ての地頭がその内容をよく知っていたと言われています。

③御成敗式目は室町時代・戦国時代・江戸時代と長く武士の法律の手本とされました。

④領地は武士にとっての命であり、先祖から受け継いだ土地を認めてもらうこと、新しい領地をもらうことの二つが最も大切なことでした。ですから御成敗式目の中で最も大切なのが第7条の将軍によって与えられた土地を保障することと、第8条の20年間実行支配すれば誰からも奪われないという部分になります。

⑤いったん相続した土地でも親が返せと言えば返せる「悔返し」(くいかえし)や、子供のいない女性が養子をもらって土地を相続するなど、親の権利を優先していたこと。また、女性にも大きく権利が認められていることは注目すべき部分です。 *日本で女性の地位が低く見られるようになったのは江戸時代からであり、1563年に日本にやってきたルイス・フロイスは「日本の女性が男性と対等の権利を持っている」と記録に書いています。

⑥訴人(訴えた人)が訴え状を出せば、論人(訴えられた人)は書類で反論しました。これを3回繰り返したので「三問三答」といいます。そのあと訴人と論人との両者対決の口頭弁論が行われました。


このような特徴があり、その後の武家の法律である、→分国法→武家諸法度にも御成敗式目は色濃く反映しており、いかに長年武士に尊重されてきたかがわかるだろう。


参考文献・URL

・日本史B用語集

・早わかり日本史

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/exp.html


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