徳川家斉

出典: Jinkawiki

徳川 家斉とくがわ いえなり、安永2年10月5日 (旧暦)(1773年11月18日) - 天保12年閏1月30日 (旧暦)(1841年3月22日)、将軍在職1787年~1837年)は、徳川幕府第11代将軍。

御三卿の一橋家2代当主徳川治済の長子。幼名は豊千代。第8代将軍徳川吉宗の曾孫。正室は近衛経熙養女・広大院 近衛寔子(実父・島津重豪)、側室多数。

目次

経歴

11代将軍へ

幼少期から異様な性癖があったと伝えられている。蟹や鶏を相手にして踏み潰したり殴り殺したという残虐な逸話がある。しかし安永8年(1779年)に家治の世嗣・徳川家基が急死したため、父と意次の裏工作、並びに家治に他に男子がいなかったため、第10代将軍・徳川家治の養嗣子になり、さらに天明6年(1786年)に家治が50歳で急死すると、翌年15歳で将軍職に就任した。治世の初期、田沼意次を廃して白河藩で名君の誉れ高かった松平定信を老中に登用して寛政の改革を推進、綱紀の粛正を図った。

大御所時代の到来

定信は積極的に幕府財政を建て直しを図った。しかし、寛政の改革は厳格に過ぎたため次第に嫌気がさし、尊号事件のあった寛政5年(1793年)、父治済と協力して定信を罷免した。その後、寛政の遺老と言われた松平信明 (三河吉田藩主)が文化17年(1817年)病死すると、政治を老中首座の水野忠成に任せて自らは豪奢な生活を送り、その結果政治は腐敗した。その治世は大御所時代(文化文政時代)と言われる。官位は従一位太政大臣にまで昇任しているが、これは2代将軍徳川秀忠以来である。

家斉時代の末期

天保5年(1834年)の水野忠成死後、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる。末期は幕末の老中となった間部詮勝や堀田正睦や田沼意正(意次の4男)等を重用した。天保8年(1837年)に子の徳川家慶に将軍職を譲っても実権は握り続けたが、天保12年(1841年)に69歳で薨去した。やがて側近政治は忠邦に否定されて、旗本・若年寄、大奥等数人が罷免・左遷される。そうして詮勝や正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。


家斉の子・妻妾

  • 特定されるだけで40人の妻妾を持ち、男子28人・女子27人の子をもうけ、その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもあった。また、家斉にはそのほかにも妾がいた、とも伝えられており御落胤は数知れず、それら膨大な子供たちの養育費が、逼迫していた幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなった。
  • 一方で、下記のように、子供の多くは大藩の大名に関係することから、血縁関係による大名統制を行っていたとも考えられる。また、将軍の子を迎える大名に、それに伴う儀礼などによる経済的負担を課していたとも考えられる。ただし、彼の娘を娶った毛利斉広鍋島直正が倒幕に関係したことからすると、血縁関係による大名統制は失敗に終わったと言えるだろう。

エピソード

  • 家斉は、御三卿の一橋家で生まれたが、この時、屋敷のあたり一面が真っ赤な光がただよっていて、その色がさめた時、家斉が生まれたという。後に家斉が将軍家に迎え入れられた時、一橋家の人々は、例の赤い光はこの慶事の前兆だったかと噂したという。
  • 家斉は官位を望み、ついには将軍としては空前絶後の太政大臣にまで昇りつめ、それのみならず、生活のほうも奢侈に走り、その風は下々まで及び、特に幕政の綱紀の乱れが激しかった。大御所になった家斉は将軍となった子の家慶に対し、「猿楽に耽るな」と諭したとされるが、家斉自身が奢侈な生活をしていたため、説得力がなかった。

官職位階履歴

※日付=旧暦

  • 1781年(天明元)閏5月18日、将軍後継者となる。
  • 1782年(天明2)4月3日、元服し、家斉と名乗る。従二位権大納言に叙任。
  • 1787年(天明7)4月15日、正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • 1816年(文化13)4月2日、右大臣に転任。右近衛大将の兼任如元。
  • 1822年(文政5)3月5日、従一位左大臣に昇叙転任し、左近衛大将を兼任。
  • 1827年(文政10)3月18日、太政大臣に転任。
  • 1837年(天保8)4月2日、征夷大将軍辞職
  • 1841年(天保12)閏1月30日、薨去。2月17日贈正一位。

※平清盛以来、内大臣、右大臣、左大臣、太政大臣を順番に歴任した武家は徳川家斉だけである。また、徳川将軍家で左近衛大将を兼任したのは徳川家光以来の出来事である。

参考文献

  •  中江克己 『図説徳川将軍の「お家事情」』(PHP研究所)  2007
  •  岡谷 繁実 (著) 安藤 英男  『徳川将軍の人間学 』
  •  篠田 達明 『徳川将軍家十五代のカルテ』 (新潮新書)   2005


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