森鷗外

出典: Jinkawiki

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森 鷗外(もりおうがい)

(もり おうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日)- 大正11年(1922年)7月9日)は明治の文豪、軍医。本名林太郎。別号、観潮楼主人、千朶山房など。石見(いわみ)国(島根県)津和野横堀に生まれる。享年60歳。 軍医(陸軍軍医総監:階級としては中将に相当)、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)、小説家、評論家、翻訳家。特に、安楽死を題材にした高瀬舟が有名である。なお森鴎外の「鷗」の旁は、正確には「区」ではなく「區」。


生涯

7歳より藩校養老館で漢学を学び、また、父についてオランダ文典をも学んだ。1872年(明治5)、10歳で、父とともに上京、本号の進文学舎に通い、ドイツ語を学んだ。74年、東京医学校予科に入学、77年に東京大学医学部本科生となり、81年7月に卒業した。しばらく、当時千住で開業していた父の医療を手伝い、12月に陸軍省に入って、軍医となった。 1884年、ドイツ留学を命じられ、以後約4年間、衛生学を学んだ。その一方、多くの文学書に親しみ、また、日本の評価をめぐって、新聞紙上で地質学者ナウマンと論争するなどの活躍をしている。88年9月に帰国、陸軍軍医学舎(のち学校)教官に任じられたが、その職務のかたわら、翌89年から、医事、文学の両面にわたってジャーナリズム活動を開始した。 医事面においては、89年1月に『東京医事新誌』主筆に就任、そのかたわら3月に啓蒙誌『衛生新誌』を創刊、11月にゆえあって『東京医事新誌』を追われるや、翌12月に『医事新論』を創刊、90年9月に両誌を統合させて『衛生療病志』と命名、これを94年10月の日清戦争出征まで続けた。 文学面では、1889年当初より、評論、翻訳等を諸新聞・雑誌に寄稿、同年10月には『文学評論しがらみ草紙』を創刊、これを94年8月まで続けた。彼のジャーナリズム活動はきわめて闘争的で、93、94年の、医学界中枢と対峙(たいじ)した「傍観機関」論争、91、92年の、坪内逍遙(と渡り合った没理想論争が、とりわけ注目されるものである。創作は、90、91年に『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の雅文3部作を発表して、新風を巻き起こした。 私生活面では、鷗外の後を追って来朝した『舞姫』のモデルを説得、帰国させた約5か月後の89年3月に、赤松則良(のりよし)男爵の長女登志子と結婚したが、約1年半で離別した。 日清戦争終結後、執筆活動は、以前と比べればかなり沈静したものとなった。99年、そのジャーナリズム活動も一要因となって、第十二師団軍医部長として小倉に左遷された。鷗外は、隠忍して命に従い、その間は、ドイツ美学の翻訳や、アンデルセンの『即興詩人』の翻訳を続ける程度で、また、1902年(明治35)には、荒木志げを妻として得、同年3月、第一師団軍医部長に任じられて帰京した。 1907年11月、45歳で陸軍省医 務局長に就任、これをきっかけとして文学活動を全面的に再開させる。08年にはまず翻訳活動を、ついで09年から創作活動を全開にして、自然主義興隆後の 文壇の盛況に伍した。『半日』『青年』『妄想』などの長短の現代小説を相次いで発表、12年(明治45)の明治天皇崩御、それに続く乃木(のぎ)将軍夫妻の殉死をきっかけとし、歴史小説に転換した。さらに、16年(54歳)の陸軍省退官と前後して、『渋江抽斎』をはじめとする史伝に移行した。翌17年末には、ふたたび官途について、宮内省帝室博物館総長兼図書頭となり、終生その職にあった。19年にはさらに帝国美術院初代院長に就任、21年には図書寮の仕事として『帝諡考』を完成出版。 22年(大正11)7月9日、萎縮腎(いしゅくじん)と肺結核の症状で死去。享年60歳。墓は現在、東京・三鷹(みたか)市の禅林寺にある。なお、生家は津和野町で保存され、1892年以降の住居、文京区千駄木(せんだぎ)の観潮楼跡には鷗外外記念本郷図書館が建っている。


業績

鷗外の仕事は、はなはだ多岐にわたっている。

○医学においての業績

鷗外は、陸軍省医務局長まで務めた軍医として業績をあげている。近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、 日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。 しかし鷗外が寄稿する論文の多くはドイツなどの論文の広範な引用が多く、文章のレトリックや学問的な裏付けに拘るばかりで、臨床医学の実質からは乖離した ものと言われ、当時の医学界からは最初から相手にされていなかったとも言われる。

○文学においての業績

鷗外は、医事、文学等について啓蒙、批評、報道に努めた大ジャーナリストとしても業績をあげている。理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突することもあった。 鷗外には、虚構の大道を行く本格的長編は少ない。現代小説では『青年』『雁』『灰燼(かいじん)』が長編だが、小説的によくまとまっているのは『雁』一編で、『青年』は熟成せ ず、『灰燼』は中断してしまっている。『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭(かてい)』の史伝三作は、長編ではあるが、鷗外自身、小説 とは考えていなかった史的述作である。しかし、とりわけ『渋江抽斎』は、鴎外がかけた情熱に比例して、深い感銘を読者に与え、結果として優れた文学になっている。鷗外の最高作品であり、小説に新領域を開いたものということもできる。これは、想像的であるよりは知的である鴎外が、その資質をよく生かしえた未曽有の世界である。短編は数多いが、傑作はやはり歴史小説に集中しており、『阿部一族』『山椒大夫』『最後の一句』『高瀬舟』『寒山拾得』などは、多くの人々に親しまれている名作である。 生涯衰えることのなかった、鷗外の文学への渇望は、終生その身を俗界に置いていた彼の自己救済の願いに深くかかわっていた。『舞姫』等の初期3部作や、『即興詩人』などの初期諸翻訳では、それが、美的、浪漫的方向性をとって現れ、明治浪漫主義――唯美主義の流れと結び付くことになった。第二の活躍期では、高踏的な姿勢をとって、作品のなかで、俗界の権威主義を厳しく突くと同時に、対極の虚無思潮をも打つという両面批判を展開しつつ、しだいに安心立命の 境域を歴史のなかに模索していった。そして、その俗界との緊張感は、「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と書いた遺言にまで持ち越された趣(おもむき) がある。自然主義系の文学とは肌があわず、相互に疎んじ合った。鷗外は生涯、文学上の弟子といった者はもたなかったが、雑誌『スバル』系の人々とは親しんだ。

その他、ドイツ美学の訳述と、美術審査の仕事、ヨーロッパ文学翻訳の業績、国家に責任をもつ立場からの、思想上、政治上の諸発言、晩年の歴史研究。小説、詩、短歌にまたがる作家としての仕事のほかに、以上のような諸業績が数えられるわけで、まさしく驚くべき多力の人であった。鷗外全集も、その過半を創作以外の文章が占めている。鷗外の今日の名声は、むろん、その文学上の業績によっているが、この多面性は、日本の近代文学者中まったく類例をみない。


鷗外を尊崇する作家

永井荷風、木下杢太郎、佐藤春夫、芥川龍之介、石川淳、三島由紀夫ら。


高瀬舟にみる安楽死

 大正五年、森鷗外は「高瀬舟」を発表している。「高瀬舟」は安楽死を扱ったもので、医者である鷗外自身、高瀬舟縁起の中で「ユウタナジイ」という言葉で、医療における安楽死の問題をして記している。もうこの時代に、医療の世界で安楽死が論じられていたのである。  

幼少の頃、両親を失った兄弟が、青年となり助け合って暮らすが、弟が病気となり兄ひとり西陣で働く。 弟は、自分の存在が兄に負担をかけていることを心苦しく思う。ある日、兄がいつものように帰ってくると、弟は血だらけになって布団の中にいる。兄が血でも 吐いたのかと聞くと、死のうとして死にきれずに苦しんでいる。 『済まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせ治りそうもない病気だから、はやく死んで少しでも兄貴に楽がさせたいと思ったのだ。笛(ノド)をきったらすぐ死 ねるだろうと思ったのだが息がそこから漏れるだけで死ねない。…物を言うのがせつなっくていけない。どうぞ手をかしてくれ』という。兄が医者を呼ぼうとすると、『医者がなんになる。ああ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』と恨めしそうな目付きで催促をしてやまない。ついに兄は、手を貸してのどに食い込んでいる 剃刀を引き抜き、弟は、それによってこと切れるという物語である。


森鷗外記念館

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森鷗外『高瀬舟』1916年


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