聖徳太子2

出典: Jinkawiki

聖徳太子(574年~622年)は飛鳥時代、593年~622年に推古天皇の摂政となり、政治の中心人物として活躍し、仏教による政治を推進した人物として知られている。父は用明天皇であり、聖徳太子は厩戸皇子(うまやどおうじ)と呼ばれ、上宮王とも言う。冠位十二階、憲法十七条、遣隋使派遣により皇権を強化して集権的官僚国家を整備する。また仏教の興隆や国史の編纂も行う。奈良桜井市の上之宮遺跡は、太子が住んだ上宮の跡であると考えられている。また、後に太子が住むようになったのは斑鳩宮である。近年歴史学研究の中では、太子の事績(太子の成し遂げた業績)と言われていることや資料等を否定する研究がある。これにより厩戸皇子の存在は認めるが、日本書紀等の伝える聖徳太子像を虚構とする説もあげられている。

生涯

574年に誕生。19歳で摂政となり、四天王寺を建立する。600年太子が26歳のときに遣隋使を派遣、また新羅征討軍を派遣する。603年に冠位十二階の制を定め、翌年604年には十七条の憲法を定める。607年、第二次遣隋使として小野妹子を派遣し、その翌年には隋使裴世清が来る。35歳の時に『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』の作成を開始する。さらに37歳には『維摩経義疏』の開始。その後は『法華経義疏』の作成も開始する。蘇我馬子と一緒に620年には『国記』、『天皇記』を記録し、622年、48歳で死去する。

理想国家建設のために

聖徳太子が推古天皇の摂政として政治の中心にたったとき、国内は蘇我氏によって天皇さえもないがしろにされる状況であり、国外では隋が中国を統一して高句麗への遠征を計画していた。こうした情勢の中で、太子は仏教を政治の基本理念にすえて、天皇中心の中央集権国家をつくることに力をつくした。人を束ねる政治に仏教という宗教が必要であったとする。太子はすべての人間は「共に凡夫(平凡な存在)のみ」であり、仏教の教えの前に謙虚になること(世間虚仮、唯仏是真)が平等で争いのない世の中を作ると考えた。仏教という外来の思想を初めて理解し、政治の基本理念としたことは、太子の優れた見識として、太子をもって日本仏教の源流とされるゆえんであると知られている。


参考文献

倫理資料 東京法令

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90


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