連合赤軍
出典: Jinkawiki
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概要
1971年から1972年にかけて活動した日本の新左翼テロ組織。共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派神奈川県委員会が合流して結成された。1971年、共産主義者同盟赤軍派は最高幹部クラスが逮捕されたり・国外逃亡したりして弱体化していた。同派はM作戦(金融機関強盗)によって資金力はあったが、武器がないのが弱点であった。一方の日本共産党革命左派神奈川県委員会は真岡銃砲店襲撃事件などで猟銃を手に入れていたため武器はあったが、資金力がなかった。互いの活動を評価していた両組織は7月15日「赤軍」(統一赤軍)として統一された。赤軍派幹部の一人である森恒夫は当初から党の統一を志向していたが、獄中の日本共産党革命左派神奈川県委員会議長である川島豪らの強い反対で連合赤軍に改称された。
浅間山荘事件
連合赤軍のメンバー5人(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久)が、浅間山荘の管理人の妻(当時31歳)を人質に10日間に渡って立てこもった。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。 2月28日に警察が浅間山荘に強行突入。死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出したが、人質は無事保護され、立てこもり犯5人は全員逮捕された。 事件の発端は当時、連合赤軍の前身である京浜安保共闘は、真岡銃砲店襲撃事件で猟銃店を襲って銃と弾薬を手に入れて逃走を続けていたため、警察はその行方を追っていた。警察に追われていた連合赤軍のメンバーは、群馬県の山岳地帯に拠点「榛名山ベース」を構え、潜伏して逃避行を続けていたが、警察の山狩りが開始され、また、外部からの援助等も絶たれ組織の疲弊が進んでいた。警察の山狩りによって、榛名山や迦葉山のベースを発見されたことをラジオのニュースで知ると、群馬県警の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県を出て隣接する長野県に逃げ込むことにした。彼らは長野県の佐久市方面に出ることを意図していたが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった。立て籠もり先として浅間山荘が選ばれたのは偶然であった。連合赤軍はアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立て篭もって発砲を繰り返した。途中、人質を解放する案や夜中に山荘を脱出する案も浮上したが、結局最後まで人質を取って籠城する方針は変わらなかった。
山岳ベース事件
1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件。当時、連合赤軍は、テロを行ったメンバーの多くが指名手配されるなどして都市部で自由な行動ができなくなっていた。そこで、警察の目の届かない山岳地帯に「革命戦士」となるための軍事教練や今後のテロ作戦のための拠点として、神奈川県の丹沢山地および群馬県内の榛名山や妙義山の周辺に、廃屋などを利用したアジトを複数設営し、これを「山岳ベース」と呼称した。山岳地帯に逃げ込んで警察の捜査網から一時的に逃れたメンバーたちであったが、地元住民に不審な行動を通報されたことによって、警官隊の山狩りが開始された。その最中の1971年12月頃から「総括」と称して内部でメンバーに対する批判や自己批判の強要が行われるようになり、それがエスカレートして粛清に発展した。 総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。連合赤軍の実質的リーダーであった森恒夫と永田洋子の2人は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、完全な共産主義を受け入れ真の革命戦士になれるという論理を展開した。「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。その際のリンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。被害者らの死因は殴打による内臓破裂や、氷点下の屋外にさらされたための凍死であった。僅か2ヶ月足らずの間に同じグループ内で12人も殺害した凄惨極まりない事件は、社会に大きな衝撃を与えた。
参考文献
植垣康博『連合赤軍27年目の証言』彩流社
大泉康夫 『氷の城 連合赤軍事件・吉野雅邦ノート』 新潮社
久能 靖 浅間山荘事件の真実 河出文庫