長宗我部元親
出典: Jinkawiki
長宗我部元親[1538(天文7)~1599(慶長4)] 享年62
・「姫若子」から「土佐の出来人」へ
元親は、幼少の頃「姫若子」とあだ名されるほどおだやかで、女性的な立ち居振る舞いは家臣からも嘲笑されたという。しかし、1560年に宿敵・本山氏との雌雄を決した長浜の戦いの初陣で、自ら槍を持って、敵の大軍に果敢な突撃をおこなって70もの首級をあげる大活躍。以来、あだ名も「姫若子」から「土佐の出来人」に変わり、近隣諸国の勢力からも一目おかれる存在となる。大人しそうな優男だが、いざという時には、コワモテだった父よりもさらに過激で怖かった。この戦いの直後に父・国親は急死するが、勇名を馳せた元親が家督を相続することに、もはや異を唱える者はいない。長宗我部家は元親のもと一丸となり、さらなる拡張政策をとる。土佐国統一はもちろん、四国全土の統一を目指した。
・一領具足の制度
四国全土統一への原動力となるのが父・国親が造りあげた一領具足の制度である。普段は農地を耕しながら、いざ召集があれば常備した武具を持ってはせ参じるという、いわば一種の屯田兵である。正規の武士ではないが、動員数はかなりの数にもなり、その兵力は敵にとっては脅威になった。田畑に出る時には、必ず具足一領と兵糧を槍に結びつけ立てておき、出陣の命令が下ればすぐに兵隊に早変わりして城へ走ったという。
・四国統一の夢
父の作ったこの制度を元親は積極的に活用した。農閑期になると、一領具足を大量動員して出兵。あっという間に、土佐国の中央部を制圧して、さらに中村の一条兼定を圧迫して土佐から追放ついには土佐国を統一する。元親はさらに侵略の手をゆるめず、伊予や阿波、讃岐へ一領具足たちの畑仕事がひと段落ついた農閑期になると、毎年のように出兵を練り返す。1580年には阿波と讃岐をほぼ平定して、残るは伊予だけ。四国統一の夢もほぼ叶いそうなところまできていたが、ここで思わぬ敵が出現する。当初は、阿波の三好という共通の敵があったために協力関係にあったために元親と協力関係にあった織田信長が、彼の四国統一事業に待ったをかけて臣従を求めてきたのだ。
・四国覇者も秀吉の前に屈する
元親は信長の干渉を厳然と拒否。決戦は避けられない情勢となった。直後に本能寺の変が起こったため、直接戦うことはなかったが、天下統一を目前にしていた信長相手に一歩も引かなかったところに、元親の覇気の強さがうかがえる。危機を脱した元親は四国侵攻を再開。1588年春、伊予を掌握し、ついに念願の四国統一を果たす。土佐を統一してから10年目の偉業であった。しかし、同年、天下統一を目指す秀吉が讃岐・伊予の割譲を要求。外交による解決を目指した元親は、伊予一国の返上での妥協を試みるが秀吉は許さず、12万余の大軍で四国に侵攻してきた。元親の軍は、予想以上に弱かった。阿波と伊予の諸城は次々に落城し、防衛線は各所で破られる。一領具足たちは、上陸してきた秀吉軍の装備に驚いたという。自分たちの貧弱な甲冑と比べて、敵のは立派でいかにも頑丈そうであり、また、鉄砲などの近代兵器も大量に持っている。さらに中央ではすでに兵農分離が進み、専業化した兵たちを組織することにより、農閑期を気にせず長期戦に望むこともできる。元親が四国統一の切り札と考えていた一領具足の軍団はすでに時代遅れの代物になっていた。結果、二ヶ月で降伏し、土佐一国を安堵され秀吉に服従した。
・「鳥なき島のコウモリ」
かつて織田信長が、身の程を知らず自分に刃向かってきた元親に対して、「鳥なき島のコウモリ」といって笑ったという。強敵のいない四国だったからこそ、長宗我部軍団は破竹の進撃を続けて四国を統一できたということだろう。
・元親の性格
元親は、家臣の諫言によく耳を傾け、敵に回った者にもよく理解を示して人質を送り返すなど、仁に厚い人柄だったと伝えられる。ところが、秀吉の九州攻めの先鋒軍に属した元親は、戸次川の戦いに敗れて、長男で智勇兼備の名将の器と将来を大いに嘱望されていた信親を戦死させてしまう。元親の性格はここから一変したという。家臣の言葉にも耳を貸さず、諌言するものを殺害するようになったという。元親は中央情勢に対する判断の甘さから、領土の大部分を失ったが、戦一辺倒の人物ではなく、内政・外交にも長けた硬軟あわせもった武将であったといえるだろう。
参考文献・出典
歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 (学研)
日本史1000人上 (世界文化社)
戦国武将最強は誰だ? (一水社)