ゲーテ
出典: Jinkawiki
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ドイツの作家。青年期の抒情詩や戯曲「ゲッツ」、書簡体小説「若きウェルテルの悩み」で疾風怒濤期の代表者となる。ワイマール公国で政治活動の傍らイタリアで美術を研究。以後古典主義に転じ、シラーと親交を結び、自然科学の諸分野でも研究の成果を上げた。戯曲「エグモント」「ファウスト」、小説「ウィルヘルム=マイスター」「親和力」、叙事詩「ライケネ狐」「ヘルマンとドロテーア」、自伝「詩と真実」、「イタリア紀行」、「西東詩篇」など。(1749~1832)
幼児期のゲーテ
ゲーテは長明の生涯を享受したが、幼少期はきわどいいのちの綱渡りをしていた。まず、出生時からして、若くて未経験な助産婦の不手際もあったが、仮死状態で生まれている。助産婦と祖母が、生気のない赤子をゆすったり、鳩尾に葡萄酒をすりこむなどして、ようやく生き返った。ここで一命を取り留めたものの、9歳の時に、かなり重い天然痘にかかっている。当時、ドイツもそうだがヨーロッパでは子どもは8歳くらいまでの間に、その半分が死んでしまったが、その死因の第一位は天然痘であった。ゲーテの下に5人の弟妹がいたが、大人にまで育ったのは、すぐ下の妹だけで、他の4人は皆2歳から12歳の間にこの世を去った。
若き日のゲーテ
ゲーテは1765年に16歳でライプツィヒ大学に入学したが、そのときまで、普通の学校教育は受けていない。家の改築時に一時町の学校に通ったが、それ以外はおよそ学校というものにはいかず、もっぱら父親と家庭教師によって教育された。
ゲーテは父親の監督のもとに、いろいろな家庭教師がつき、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、英語、イタリア語、ヘブライ語を学び、もちろん算数、幾何、地理、歴史、宗教などの授業も受け、乗馬やフェンシングも習わされた。大学入学前には、父親からローマ法の講義まで受けている。
政治家ゲーテ
1775年11月にワイマールに着き、翌76年6月に枢密参議会に加えられてから、1786年9月にイタリアに旅立つまでの約10年間、ゲーテは政治家として活動した。ヘルダーが書いた文によると、「ゲーテは今や正式の枢密参議官であり、財務長官であり、軍事委員長、下は道路工事までを含む建築総監督であり、祝祭や宮廷オペラの作家であり、俳優であり、ダンサーであり、つまりはワイマールの何でも屋である」 と記されているように、とても多忙な生活を送っていた。
ゲーテの教育思想
ゲーテ教育学の問題は、厳格に社会に役立つように教育されるべき青年がいかにして自らのうちになお完全な人間性の理想を実現しうるか、ということである。「一つのことによって一切をなす」ためには一つが一切を含み一切を意味するようになしうる高い意味における専門家でなければならない。「広く」多方面に伸ばすことは人間をまとまりなく遠心的に終らしめ、ものを「深く」根本的に学ばせることが人間をして求心的に自己を形成する、と説いた。ゲーテにとって仕事こそ人生の主要価値でありその仕事をなしうる堪能こそが教育の究極目標であった。人格を形成する教育は生活共同体、労働の共同体への参与においてのみ保証され、社会において有用になることは人格形成の必然的な条件である。そこで、教育を単なる「学習過程の直接の指導」と考える教育学を超えて、社会生活の中において社会生活そのものに抵触し参与していく道を通して有用な社会的人格を形成しようとした。学校は社会生活の縮図となり、生活学校、社会職業的に規定された作業学校とならねばならぬ、と考えた。
参考
坂井栄八郎 「ゲーテとその時代」 朝日選書
前田博 「ゲーテとシラーの教育思想」 未来社