ゴッホ2

出典: Jinkawiki

人物


フィンセント=ファン=ゴッホ(1853〜1890)はオランダ南部のフロート-ズンデルト村に牧師の長男として生まれる。27歳のときに画家を志し、33歳でパリに渡って印象派や日本の浮世絵に影響を受けた。その後南フランスに移りら『ひまわり』『アルルのはね橋』などの代表作のほか、多くの自画像を描いたが、37歳で自殺した。セザンヌやゴーギャンとともに後期印象派の代表的画家とされている。


印象派とは


印象派印象主義の画家たちの総称。印象主義は19世紀後半にフランスを中心に起きた美術運動で、自然の中の微妙な光や空気の漢字を明るい色彩で絵に描いた。日本の浮世絵はこれに大きな影響を与えた。


27歳から絵画を習い始める


天才画家と言われたゴッホが、本格的に絵画を学び始めたのは、27歳のことだった。牧師のことして生まれたゴッホは、幼い頃から絵に興味を持ってはいたものの、画家を志すまでは、画商や語学教師、伝道師など、様々な職業を転々としていた。ゴッホの仕事ぶりは大変真面目だったが、思い込みの激しい性格だったがために、いつも仕事に打ち込みすぎて問題を起こしやめさせられてしまっていた。思い悩んだ末、最後にたどり着いたのは、幼い頃から好きだった絵を描くことだった。 ゴッホはブリュッセルの画学校で数か月間絵画を学び、その後はオランダとベルギーの各地を転々としながら、絵の勉強を続けた。そのころは、ミレーに影響を受けて、貧しい農民や労働者の姿を暗く重い絵に描いた。 そうした修業生活を支えていたのは、弟のテオドールだった。33歳のとき、ゴッホはパリでテオドールと一緒に住むようになる。画商を営むテオドールは、兄の絵の才能を信じ、その生涯にわたって精神的・経済的にゴッホを支え続けた。パリでは、ロートレックやピサロ、ゴーギャンなどの印象派の画家と知り合い、また日本の浮世絵に影響を受けて、ゴッホの絵は、光に満ちた明るい色彩のものへと変化していった。


炎と燃えた晩年


しかし、パリでの生活に心身の疲労を感じるようになったゴッホは、35歳のときに南フランスのアルルという町に移った。パリにはなかったまぶしい太陽の光や豊かな自然に驚喜したゴッホは、驚くべきスピードで次々に絵を描き始めた。代表作である『アルルのはね橋』『ひまわり』を描いたのもこのころである。 まもなく、ゴッホは、友人の画家ゴーギャンをアルルに招いて共同生活を始めた。画家として互いに刺激を与え合いながらも、個性の強い2人の間には、衝突が絶えなかった。また、連日の猛烈な絵画制作で、ゴッホは再び心身ともに疲れきってしまい、精神病の発作を起こすよう になった。そして、ついにゴギャンに向かってかみそりを振るい、自分の耳の一部を切り落とすという事件を起こしてしう。こうしてアルルでの生活は終わりを告げ、ゴッホは精神病院へ入院することとなってしまった。


死後に高まったゴッホへの評価


ゴッホは、入院中も『糸杉』『星月夜』などの傑作を描きつづけるが、その精神は、さらに病にむしばまれていった。それに拍車をかけるように、最愛の弟テオドールの事業が行き詰まったことを知ったゴッホは、ピストル自殺を図り、2日後に37年の短い生涯を終えた。画家を志してからわずか10年という短い画家人生であったが、ゴッホは全てのエネルギーを費やし、850点以上もの油彩作品を残して悲劇の最期を遂げたのである。 ゴッホは、近代絵画を代表する画家であり日本でも最も人気のある画家の一人とされているが、生存中に売れたのは『赤い葡萄畑』という作品たった1枚だけであった。しかし、ゴッホの死後、純粋な魂が込められた作品は多くの人に認められ、しだいにたかい評価を受けるようになっていった。今では、絵画に情熱をささげ、命を燃やしつくした画家として、ゴッホは「炎の画家」と呼ばれている。


参考文献


目でみる 世界人物百科 2 芸術・文学人物事典 日本図書センター

TIT


  人間科学大事典

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