スカーフ事件2
出典: Jinkawiki
フランスのスカーフ事件と国務院見解
1989年におこった「第一のスカーフ事件」の経緯を簡単にまとめておこう。イスラムの戒律では女性は髪の毛を露出してはならず,外出にはスカーフを着用することが義務づけられているとされるが,1989年10月,クレイユという町の中学校でスカーフを着用して登校した女子生徒が公立学校における政教分離(ライシテ)原則に反するとして教室内に立ち入ることを学校長から禁止される。
この処分がメディアに報道され,政治家,知識人,宗教界,各種人権団体をまきこむ大論争となる。
ただしそれは旧来の左右両陣営を対立させるというより,左右を縦に分断するような論争であった。
少々単純化して図式的に表現すると,左翼では多文化主義的左翼と普遍主義的共和主義的左翼,右翼ではキリスト教民主主義的中道派と権威主義的右翼が対立して,前者がスカーフ容認派,後者が禁止派として論陣をはる。
当時はミッテラン大統領のもとロカールが首相として社会党政権を担っていたが,文部大臣であったジョスパンはこの問題について国務院に判断を求め,それに応じて国務院が発表した「見解」の結論は「スカーフ着用自体は政教分離原則に反しないが,顕示的であったり,学校の秩序に混乱をもたらす場合には処分可能である」というものであった。ジョスパン文部大臣はそれにしたがって大臣通達をだし,スカーフ着用者に対して排除ではなく指導によって対応するよう学校に要請する。
何故スカーフの着用が問題になるのか。それはフランスではとりわけ公教育における政教分離原則が原理として極めて重要であるからである。フランスにおいて共和主義は常にカトリック教会と葛藤的な関係を持っていた。政教分離原則が確立したのはようやく第三共和制時代であったが,その時,最大の争点になったのは公教育からの教会の影響力の排除であった。したがって公立学校においてはいかなる宗教的色彩の侵入も許されないということはフランス人にとっては自明の理であるように思れ
た。
しかしスカーフ着用は本当に政教分離原則に反するのか? スカーフ着用に反対する人々はそれが自明であるかのように考え,そのように主張するのであるが,しかし意外にも,明示的にそういう規定は存在しない。それどころか1989年の国務院見解は,むしろ一般的な形での宗教的印着用の禁止は憲法に保障された信教の自由の原則に反するという判断を示す。
ドイツのスカーフ事件
植民地を殆どもたなかったドイツには、戦後個別雇用協定で移住してきたトルコ系労働者などの300万人というフランスに次ぐムスリムがいる*1。フランスの厳格な政教分離とは違って、ドイツは国家と教会を分離する明確な規定は無く、教育行政に関しては、州(ラント)が立法権限を持っており、地区ごとにその扱いが違ってくることとなる。 1998年、アフガニスタン出身女性教師がスカーフ着用して、教員不適格として採用拒否された。教師は裁判で争い、2003年勝訴した。行政裁判所は、教壇に立つキリスト教系修道女の修道服との兼ね合いで、スカーフ着用を合憲と判断した。が、しかし2007年上級行政裁判所は、学校法違反と違憲判断。結局、8つのラントがスカーフ禁止措置をとった。 こうして地域に依って判断が割れた訳は、ドイツではキリスト教教育が法的に保護されているのに、イスラーム教育の権利がないことが、公平性に欠けるとして、大きな問題となったのである。
アイデンティティ問題
結局、「ムスリムのスカーフ」が問題なのではなく、フランスのドイツのトルコの「ヨーロッパのスカーフ」が問題となっている訳である。
スカーフを着用する娘の多くは移民またはその子供であり、ヨーロッパ社会の自由を謳歌しながらも(差別を含む)様々な要因から完全同化は出来ないとなったとき、周囲の西欧的価値とは違う自らの自律を考えうるに、ルーツであるイスラーム的な価値を引き寄せて個人主義的に「自分らしさ」としてムスリムをアイデンティファイするというのは、実はきわめて西洋近代的価値観に基づいた個人像を作るあり方が、ヨーロッパ的価値観では、承認されないのである。スカーフ着用は抑圧の産物ではなく、逆に自らを解放した積極的で自律的な立場表明、それはリベラル・デモクラシーではないのか。そういった個人のアイデンティティに関わる考察に至らず、表面的なスカーフ着用にばかり拘泥する「ヨーロッパ的普遍」とやらは、はたして本当にリベラルなのかと、逆に懐疑に晒される。
参考文献
丸岡高弘 スカーフ事件とフランス的政教分離