チベット問題
出典: Jinkawiki
「チベット問題」の由来と国際背景
イギリスは18世紀後半からチベットに手を出した。1840年以降、アヘン戦争、太平天国蜂起、1900年の八国列強の侵略などで清朝は衰えた。これに付け込んで、すでにインドなどを植民地にしたイギリスはチベット侵略に乗り出した。帝政ロシアとの勢力範囲争奪の背景もあり、1888年と1904年2度にわたってチチベット自治区の歴史と帰属問題について 83ベットを侵略した。特に1904年3 月大砲・機関銃など近代的兵器で武装された3000人のイギリス軍がラサへ侵攻の途中、侵略に激しく抵抗する火縄銃と槍が兵器のチベット地方の軍に談判するといって罠にかけて、引火する火縄の火を消させてから、いきなり機関銃掃射のだまし討ちで1400名あまりの兵士を殺した。このように武力を背景に「ラサ条約」など数個の条約を突きつけて、中国の領土と利益を蝕んだ。中国の主権を暗に否定する「ラサ条約」に駐蔵大臣の有泰は署名を拒否し(部下に止められて)、清朝政府はチベット地方政府役人の承諾した賠償金は出すが、条約は非合法として認めず、ロシアとフランスも反対を表明した。1906年北京で修正されたものが「中英続訂蔵印条約」の付属部分とされ、「中国政府は他国によるチベットへの政治的干渉を許してはならない」にとどまったのである(「人民日報海外版」、「中国西蔵基本情況叢書─西蔵歴史」)。
ダライラマ13世は最初イギリスの侵略に強く抵抗していた。1904年ラサがイギリス軍に占領される直前、ロシアブリヤートモンゴル人僧侶側近の扇動でモンゴル地方に亡命し(このため清朝政府は彼の称号を「暫定的に剥奪」した)、ロシアの援助を取り付けようとした。しかしロシアは日露戦争で負けたため、実質的支援はできなかった。ダライラマ13世は再び清朝に希望をもち、1908年北京入りした。しかし、清朝はチベット東部のカムドで改土帰流を実行し、四川軍をチベットに派遣したことで、支配階級の利益が脅かされたため、清朝に反目したダライラマ13世はイギリスの支援を得ようとして、1910年一時インドに亡命した(清朝政府は再び彼の称号を剥奪した)。イギリスはこれを喜んで、ダージリンにガシャを設立させた。翌年イギリスインド総督は武器提供などをして、ラサ駐在の四川軍への攻撃を策動した。
1912年12月ラサに戻ったダライラマ13世は、地方の首領大会を召集して意見を求めたが、多くの反対意見が出て、四川・雲南からの軍隊も遠く離れていないため、躊躇して結局「チベット独立」を行う決心ができなかった。
1913 ~ 14年イギリスはインドシムラで「シムラ会議」を開かせ、「チベット独立」や「大チベット」を策動したが、中国政府の同意が得られず、第1次世界大戦が始まったため、会議は無期限休会した。この時チベット地区側代表と84の秘密裏の交渉で独立支援を条件に、イギリス代表の名前にちなむ「マクマホンライン」を作って、中国の 9 万k㎡あまりの領土を英領インドに分けることにした。しかし、チベット地区側代表はダライラマ13世に報告しなかった。
その後、かつてイギリスのチベット駐在代表だった黎吉生(音訳)は独立後のインドの代表となり、中央政府と親しいダライラマ14世摂政の熱振活仏の更迭と、チベットを中国から分裂させる策動を続けた。イギリスは「チベット問題」を生み出した恥ずべき張本人である。
参考資料
http://www.tibethouse.jp/situation/
http://scpj.jp/wordpress/wp-content/uploads/TIbet_(geography_history_dominion_issue_).pdf
ハンドルネーム:kinge