フランス 移民問題

出典: Jinkawiki

移民受け入れの歴史

既に19世紀後半から出生率が低下し始め、第一世界大戦以降、人口が著しく減少したフランスでは、大量の移民を受け入れていた。特に第二次世界大戦後の「栄光の30年」と呼ばれた経済成長期(1945~75年)には、安価な労働力が必要とされ、スペインやポルトガル、マグレブ(特にアルジェリア)から大量の移民が集まった。彼らの多くは炭坑や自動車工場の労働者として働き、フランスの経済成長を支えてきた。

しかし、オイルショック後の74年、当時のジスカール・デスタン政権は突然、国境の閉鎖と、就労を目的とする移民の受け入れ停止を決定する。その背景には、オイルショックによる経済不況だけでなく、低賃金で過酷な労働条件の職種が外国人労働者の職場として固定化したり、劣悪な環境の住宅や居住地域が形成されたり、さらには自らの権利に目覚めた外国人労働者たちによるストライキ等の労働争議が発生し始めるなど、新たに生まれた社会・経済・政治的問題が存在するとされる。

不況下で移民労働力への需要が減少すると、移民政策は「労働力導入」を目的としたものではなくなった。移民は国にとって必要な「労働者」ではなく、社会のなかの「異質」な要素として認識されるようになっていったのである。こうしたなか政府は、1976年「帰国奨励政策」を開始する。これは志願者全員に1万フラン(約20万円)の奨励金を支給し、移民たちに本国への帰国を促すものであったが、効果はみられなかった。また、新規の外国人労働者の受け入れを停止した一方で、家族の合流は認めていたため、定住化した移民の家族呼び寄せとその二世の誕生によって、外国人労働者の数に変化はないが、移民の数は増加し続けることになった。


移民政策

非合法移民への規制政策として、1981年に法律で移民の入国を取り締まる一方で、すでに入国している移民について一層の権利を保障した。1993年には「パスクワ法」と呼ばれる改定移民法により、国籍法が改定され、出生地主義の適用に制限が設けられ、また、国籍を取得する際に旧植民地出身者を優遇する制度も廃止された。1997年の「シュベヌマン法」では、技術者・高等教育機関で働く者という資格が創設され、1998年の「ギグー法」では国籍申請制度が廃止され、外国人の両親を持つフランス生まれの子供は成年時に達した時に自動的に国籍が付与されるが、拒否権を持つことができるようになった。 ミッテラン政権、シラク政権においては、新規移民や不法入国の阻止という移民政策が実施された。


最近の動向

政権により若干の違いはあるものの、基本路線では大きな変化もなくすすめられてきたフランスの移民政策。しかし、97年後半からの景気の回復を背景とする雇用環境の改善や、テクノロジーの進化、少子高齢化、そしてEU拡大等、フランスを取り巻く経済・社会状況は大きく変化している。こうした変化を背景に、新たな観点から移民問題が取り上げられ始めている。例えば、98年にはIT技術者の受け入れ促進のため、「コンピュータ関連技術者への滞在許可証発給を容易にすることを目的とする」通達が出された。この通達により、情報処理学科を卒業した留学生のうち、修士レベルに相当する「情報処理エンジニア」の資格を有し、かつ年収18万フラン以上を得られる者については、帰国せずに、留学生資格の臨時滞在許可証から労働許可付きの臨時滞在許可証への資格変更が可能となった。こうした外国人の高資格労働者は、フランスの経済発展に貢献するとして積極的に受け入れるべきという意見も高まっている。その一方で、未熟練労働者の受け入れ抑制の必要が強調され、移民政策は2分化する傾向にある。社会的・経済変化を受けながら、フランスの移民政策は新たな方向に向かっていくのか。その動向が注目される。

参考資料 http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nishimura(07-2-3)

http://www.jil.go.jp/foreign/labor_system/2004_11/france_01.htm


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