フランス革命

出典: Jinkawiki

フランス革命とは1789年7月14日から99年11月9日(共和暦8年ブリュメール18日)にかけてフランスに起きた革命をいう。


革命の意義

 この革命は、思想、法律、政治、社会全領域に及ぶもので、自然権思想を武器とし、絶対王制の法構造を打ち破り、私的所有を基礎とするブルジョア社会を建設した。その過程で諸階級が並行的に革命に参加したので、市民革命の典型ともいわれるが、帰着するところは国内商工業の自由、土地耕作の自由の承認であった。革命は出発点においては絶対主義国家間の戦争を否定したが、途中からオーストリア、プロイセンなどの干渉戦争が始まり、ついでイギリスが参戦、その圧力を受けて急展開を示し、政情の不安定も続いたため、最終的に軍隊を背景にしたナポレオンのクーデターで収拾されることとなった。これはフランス革命が起きた歴史的環境を示しており、イギリスよりは後進国、大陸の他の諸国よりは先進の資本主義国であったことの反映である。


背景

 革命の思想を培養したものは、18世紀中葉からの啓蒙(けいもう)思想である。 このうち、モンテスキューは三権の区別と有機的結合を説き、貴族制を生かした君主制を理想とし、 ルイ14世流の絶対主義を批判した。ボルテールは宗教的狂信を非難して寛容論を唱え、ケネーは啓蒙的君主専制の下で地主国家への脱皮を説き、ディドロは人間本来の幸福を欲望の 充足に認めた。最後にルソーは、文明への激しい批判から出発して、個人が契約により人格と所有権を譲渡するかわりに平等な公的権利を受け取る人民国家を構想した。これら各種 の批判の的になった絶対王制は、身分制社会に立脚し、2500万国民の2%にすぎない僧侶(そうりょ)・貴族に免税特権を与えていた。彼ら特権身分は、第三身分とりわけ85%を占 める農民の納税に寄生し、なおかつ封建領主としては領主制地代を徴しながら宮廷や地方で暮らしていた。ルイ16世(在位1774~92)の政府は、それまでの累積赤字に加えて、アメ リカ独立革命を救援した軍事費のため、財政の窮乏に陥った。このため、財務総監カロンヌはやむなく1787年2月に名士会を招集した(革命の開始点をこの時期にとる歴史家もある)。 ここで特権身分にも課税する「補助地租」の提案を行ったが、僧侶・貴族の強い反対にあい、勅令審査権をもつ高等法院もこれに結託してカロンヌを失脚させた。同様に財務審議会長 ブリエンヌと国璽尚書ラモアニョンの税制・司法改革も挫折(ざせつ)し、88年8月ネッケルがふたたび財務長官に起用された。彼は第三身分の財力を借りて財政危機を乗り切ろうとし、 高等法院が要求した全国三部会(エタ・ジェネロー)の招集に応じ、第三身分議員を倍増することを決めた。

バスチーユ襲撃

 1789年7月11日、国王ルイ16世は事態の責任者としてネッケルを罷免した。この知らせがパリに届くと市民は激高し、同月14日約1万人が政治犯を収容していたバスチーユ牢獄(ろうごく)を襲撃、王室親衛隊がこれに加担し占拠した。翌日、旧体制最後のパリ市長ド・フレッセルと守備隊長ド・ローネーは殺され、宮廷の企図は阻まれた。パリは自治制の確立に向かい、選挙人会から市長バイイ、国民衛兵隊総司令官ラ・ファイエットが任命された


参考文献

河野健二著『フランス革命小史』(岩波新書)

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