フランス革命6

出典: Jinkawiki

展開

当時のフランスでは啓蒙思想家であるルソーや百科全書派であるヴォルテールにより、社会契約説が多くの知識人に影響を与えた。それに共感した国民が当時の社会体制に対する不満を鬱積させた。ブルボン朝政府、特にルイ16世はこれを緩和するために漸進的な改革を目指したが、特権階級と国民との乖離を埋めることはできなかった。1789年7月14日のバスティーユ襲撃を契機としてフランス全土に騒乱が発生し、平民らによる国民議会が発足し、革命の進展とともに絶対王政と封建制度は崩壊した。革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主達はこれに干渉する動きを見せ、反発する革命政府との間でフランス革命戦争が勃発した。フランス国内でも、カトリック教会制度の見直し、ルイ16世の処刑等のギロチンの嵐、ヴァンデの反乱といった内乱、ジャコバン派の恐怖政治、繰り返されるクーデター、それらに伴った大量殺戮などによって混乱を極めた。革命は1794年のテルミドールのクーデターによるジャコバン派の粛清で転機を迎えたが、不安定な状況は1799年のブリュメールのクーデターや1801年にフランス政府がローマ教皇とコンコルダートを結んで和解するまで続いた。最終的な決着は、第三共和政の成立を待たねばならず、革命勃発より80数年がかかった。

時代背景

18世紀のヨーロッパ各国では、自然権や平等主義、社会契約説、人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。責任内閣制を成立させ産業革命が起こりつつあったイギリス、自由平等をアメリカ独立宣言で掲げて独立を達成したアメリカ合衆国は、他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた。プロイセンやロシアでも、絶対君主制の枠を超えるものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようとした啓蒙専制君主が現れた。アンシャン・レジームに対する批判も、ヴォルテールやルソーといった啓蒙思想家を中心に高まっていたのである。しかしフランスでは18世紀後半でも、君主主権が唱えられブルボン朝による絶対君主制の支配(アンシャン・レジーム)が続いていた。アンシャン・レジーム下では、国民は三つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていたのである。

全国三部会の招集

ネッケルの後任財務長官たちも課税を実現しようとしたが、特に貴族階級の抵抗で辞職に追い込まれ、1788年、再び招聘されたネッケルは三部会の開催を就任の条件とした(参照。 パリ高等法院は、全国三部会のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた。国王は1788年7月に全国三部会の開催を約束した。翌1789年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5月5日、ヴェルサイユで開会式が行われた。国王は三部会を主導しての問題解決を目論んでいた。しかし税の不平等負担への第三身分の鬱積はすでに頂点に達しており、複雑化・多様化した国内事情ゆえ、従来の身分制では問題を解決できなかった。三部会が始まるとすぐに議決方法で議論が紛糾した。特権階級である第一、第二身分は利害を同じにするのでほぼ同じ意見を持っており、身分ごとに議決を行う方法を主張した。つまり第一、第二身分の部会が同じ議決を行えば、第三身分の部会が否決しても、2対1で可決されるという方式である。これに対し第三身分は全ての議員1人が1票を持つ、三部会合同の議決を主張した。第三身分の議員の人数が、第一・二身分の合計よりも多かったことから、第三身分の総意が議決を決めるというわけである。議決方法をめぐる討議は40日間も堂々巡りを続けた。

バスティーユ襲撃事件

国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、7月11日に国民に人気のあったジャック・ネッケルが罷免された。これに怒った民衆は、1789年7月14日、当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃した。パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火し、暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生した。これらの動きを受け、憲法制定国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を宣言し、8月27日に人権宣言を採択した。この時点ではまだ国王が主権者であったので、法律の制定には国王の承認が必要であった。しかしルイ16世は、民衆が主導する法令を拒絶し、これらの宣言を承認しなかった。王妃マリー・アントワネットが、第三身分を侮蔑していたのを始め、国王の周囲は強硬派で占められていたのである。政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの物価が高騰しはじめると、10月5日、パリの数千の女性達が武器を持って雨の中パリ市役所前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入、国王と議会に食糧を要求する。一部は暴徒と化したため、ルイ16世はこの圧力により人権宣言を承認し、彼女等に連れられてパリのテュイルリー宮殿に家族と共に移り住む。これ以降、ルイ16世一家はパリ市民に監視されて暮らすことになる。この時期の革命は、ミラボー、ラファイエットら立憲君主制派によって指導されていた。市民軍は自由主義貴族のラファイエットを総司令官に任命し、1790年、彼の提案により三色旗(現在のフランスの国旗)が革命の旗となった。

共和制の成立

9月、1年前に制定された憲法である「1791年憲法」に基づいていた立法議会が廃止された。そして財産や納税額によらず全ての男子に選挙権が与えられる普通選挙が制度化され、選挙によって新しい議会「国民公会」の議員が選ばれた。9月21日、国民公会は、王政廃止とフランス第一共和政の樹立を宣言した。これにより「1791年憲法」はわずか1年で廃止された。共和政府はルイ16世を革命裁判にかけた。国王が戦争の際にフランス政府と国民を裏切っていた証拠が数多く提出され、1793年1月14日の国民公会は賛成387対反対334でルイ16世の死刑を議決した。1月21日、2万人の市民が見守る中、ルイ16世はパリの革命広場でギロチンによって処刑された。10月にマリー・アントワネットも、後ろ手に縛られ肥料運搬車で市中を引き回された末に処刑された。国王に死刑票を投じた議員たちは、「国王殺し」として後に報復を受けることになる。彼らは、後の復古王政において、権力の座に復帰した王党派から仇敵として白色テロの標的とされるのである。

参考文献 1789年 - フランス革命序論 G・ルフェーブル 高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳、岩波書店 フランス革命 ポール・ニコル著、金沢誠・山上正太郎共訳、白水社文庫クセジュ 山﨑耕一フランス革命―「共和国の誕生」刀水書房


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