フレネ学校
出典: Jinkawiki
フレネ学校は、南フランスの小学校教師だったセレスタン・フレネ(1896-1966)が1935年に作った市私立学校である。彼は第一次世界大戦に従軍して負傷し、肺と喉を毒ガスによって障害にさらされながらも、バール・シュール・ルーという山間の小学校の教員になるが、伝統的な教育に興味を示さない農民の子ども達を相手に、様々な工夫を強いられ新しい教育法を編み出していったのだが、公教育の内部では誤解や無理解に遭い、結果として人里離れたピウリエの土地にフレネ学校が作られた。この学校は門がなく、塀も大きなグラウンドもない。緩やかな勾配を持つ丘の斜面の林の中に平屋と二階建ての家屋が校舎であった。
フランスの私立学校の授業料は月額400フラン~2000フラン(日本円に換算して約14000~80000円相当)といったところであるのに対して、フレネ学校では授業料は給食費込みで月額850フラン(日本円に換算して約34000円)である。この学校の子ども達の年齢は3歳から13歳までで、日本でいう幼稚園、小学校、中学校前半までをフレネ学校で過ごす。
フレネ学校が出来た当時の生徒は6~8才の少年30人だったが、最初の日から教科書中心の授業は子供の騒ぎなどで5分も続かなかった。フレネは机に座る授業は諦め、屋外での自然観察授業に切り替えた。ある日、少年が教室で数匹の蝸牛レースを始めると、皆夢中になり賭けをする子どもが現れた。フレネは少年達が話していることを黒板に書き始めると、今度は少年達が自分のノートに写し始め、字の書けない子供は蝸牛レースの絵を描いた。やがてフレネは小型印刷器を手に入れ、教室に持ってくると少年達は自分達の作文を印刷し学校新聞作りに熱中し、子どもが興味を持つ新聞・雑誌の切抜きを整理して、生徒の自主学習用「資料カード」を作った。1927年、フレネの学習方法に共鳴する教師達が「学校印刷器」運動を始め、経験の交流と学校間の学校新聞交換も始まり、他校の新聞は教科書代わりにも使われた。
参考文献
フレネ自由学校だより 南フランスからのエアメール あゆみ出版 1990年
学校にもっと自由を 手がかりとしてのフレネ教育 村上義雄 朝日新聞社 1984年