フレネ教育8
出典: Jinkawiki
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セレスタン・フレネについて
フランスの教育者であるセレスタン・フレネは1896-1966の人物で、フレネがニースの師範学校で最終学年のときに第一次世界大戦が起こる。フレネは卒業する前に代用の教員になり、さらに戦場にに送られた。その戦場で毒ガスによって肺を侵され、肺を切除することになる。70%の肺を切除したため、フレネは障碍者になった。
肺が少ないため、大きな声を出せないフレネは、子供の生活やこどもの表現そのものを学習の中心にする教育を見出した。こどもたちが自分たちの作文を印刷し販売して得た資金で、学校印刷所と呼ばれるシステムをつくったりしてきた。子供たちは自主的な活動(イニシアティブ)をした。だが、イニシアティブだけではなく、個々の子供が自分のレベルで自分に合う学習方法で計算や文法の習得もした。このようにこどもたちは自分のイニシアティブで学習をすすめていくため、学習を行う場所である学級協議会が組織されるようになる。このようにして教育における民主主義が形成されていった。南フランスのニースから近い田舎にある彼の学校はフレネ学校という。
フレネ学校では病気休職や配置転換という懲罰的な処分をフレネは拒否したため退職した。
第二次世界大戦後、サンポール事件をモデルとする「緑の学園」という映画でフレネの知名度は高まる。しかし、教育改革運動を主張するフレネに対して、執拗な攻撃を加えた共産党と絶縁することになる。その後、1957年に現代学校国際連盟の創設を提議して実現する。
だが、1996年10月8日にフレネは死去し、70年の生涯を終える。遺体は生地の村に埋葬され、1996年にフレネの生誕百年記念行事が盛大に行われた。