ブラウン判決3
出典: Jinkawiki
ブラウン判決とは、公民権運動の原点ともいえる裁判のことである。
しかし、このブラウン判決以前にもプレッシー判決というものがあった。 これは、正式にはニグロに分類された混血の男性、ホーマー・プレッシーがルイジアナ州内の鉄道会社に対して「白人および有色人種に対する分離すれども平等な設備利用」を提供するよう義務付けていた州法の合憲性を争うため、あえて白人席に座り、逮捕されたと事件のこと。 このころは、南部を中心とする多くの州において公共の機関や建物、トイレなどが人種により区別されていた。 このプレッシー判決は最高裁まで持ち込まれたが、ハーラン裁判官以外の最高裁判官はみな、人種的に「分離すれども平等」な設備利用は合憲であるとして原則を是認したのであった。 逆に、別人種との同席の強要のほうが違法だとまでいわれた。この判決は、その後世紀をこえ50年以上も有効性を保った。
1951年にオリヴァー・ブラウンという人物が、自宅近くの学校が白人専用であるために、娘を遠くの黒人学校までバスで通わせなくてはならないということで、これは不当であるとし、何度も転校を願い続けたが無視され、教育委員会を訴えた。この事件が、後に「ブラウン判決」を導き出す。 この裁判は人種の分離を問うものになり、最高裁まで進む。当時の最高裁判所長官のフレッド・ジョンソンが突然の死を遂げたことにより、新たに任命されたのがアール・ウォーレンであった。
マミー・クラークという心理学者の文献によると、「人種別学制度は黒人児童に対して自らの肌の色を恥ずかしく思わせ、褐色の人形よりも白人の人形を好ましく思わせることになる」と結論づけられており、ウォーレンは、人種別学制度により、黒人児童は自分たちの黒人学校に劣等感をもち、学習意欲の喪失につながるという点に同意をしていた。 ウォーレンは、このブラウン裁判で人種差別隔離政策をどのようにすれば違憲であると認めさせることができ、その後もそれを有効に機能させることができるかを考え、一人ひとりと話しあうことで保守的な判事にすら意見を変えさせたのである。
そして、この人種別学制度は、黒人は白人よりも劣った人種であるという偏見からのものであり、米国憲法第14条「全ての国民は法の前で平等」という趣旨に反しているとし、斥けたのであった。
この判決により、差別を受けてきた黒人だけでなく良識ある白人や、リベラルな政治家やマスコミなども人種差別という問題を認識するようになり、社会が人種差別撤廃への活動へと動き始めた。
- 参考
『ブラウン判決の遺産 アメリカ公民権運動と教育制度の歴史』2010 ジェイムズ・T・パターソン 慶応義塾大学出版会
ブラウン判決 http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/brown.htm
公民権運動・史跡めぐり http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_02.html
HN わさび