プロレタリア文化大革命

出典: Jinkawiki

 プロレタリア文化大革命(文化大革命、文革とも呼ばれる)とは、1966年から1976年まで中華人民共和国において続いた封建的文化、資本主義を批判し、新しく社会主義文化を創生しようとする、毛沢東の進めた政治闘争。


目次

発端

 1965年11月10日、上海の新聞は上海作家協会に所属する姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」と題した長大な論文を発表し、『海瑞罷官』なる作品が一株の毒草であり、これを著した作者は危険思想の持ち主と批判した。そして、その後著名な文化人が次々批判されていき、姚文元の意図が単なる文化・芸術の有り方を問題にしているのではなく、その標的は批判された文化人らの政治的擁護者であった劉少奇(当時国家主席)の政策と路線にあること、それが毛沢東に反対する修正主義であり、批判されねばならぬことを示唆したものであることが明らかとなった。姚文元論文が毛沢東の直接の命を受けてかかれたことは、それを物語っている。本質的には、中国共産党内の路線対立、つまりも毛沢東と劉少奇の党内抗争が”文化大革命”の名で呼ばれるのは異常のような文化人批判に始まったことによる。


紅衛兵

 原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生達が1966年5月以降に結成した団体。これは、特に無知な10代の少年少女が次々加入し拡大を続け、“毛主席万歳”と『毛主席語録』(毛沢東の著作・言動のなかから文化大革命の遂行に必要な部分を摘記・集録したもの)を自己の絶対的信条のシンボルとして街頭に進出、〈毛主席の意志である〉として“実権派”打倒の激烈な行動を開始した。彼らは〈われわれは旧世界の批判者であり、新世界の創造者である〉と呼号しつつ、“実権派”たちを襲い、鄧小平ら党と国家の指導者たちをひき回した。劉少奇は大衆批判大会に引き出されたあと、幽閉された。“実権派”とみなされたすべての人が迫害され、失脚した。そればかりか、紅衛兵は街路・商店・史跡の名称変更を要求し、道行く人の服装・容姿・言動にまで“ブルジョワ思想”を見出してこれを摘発・批判し、ついに[1]民主諸党派の解散、[2]人民公社の1958年創立時への復帰、[3]民族資本家への定期利子支払いの停止、[4]教育制度の徹底的改革など、既存の政治・社会制度の根本的改革を求める挙に出たのであった。“造反有理”(反逆には道理がある)なることばが世界中で流行語になったのも、この時期である。 しかし、次第に毛沢東思想を権威とし暴走した彼らは、派閥にわかれ反革命のレッテルを互いにはり武闘を繰り広げ、共産党内の文革派ですら統制不可能となり1968年以降青少年達は農村から学ぶ必要があるとして大規模な微農を地方移送が開始された。紅衛兵運動から収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育上及び倫理上大きな悪影響を受け、これらの青少年が国家を牽引していく年齢になった現在も、中華人民共和国に大きな悪影響を及ぼしている。 この期間、“文化”の発展は何一つなく、あるのはただ“毛沢東文化”のみであった。1966年から1969年までの期間、『毛沢東選集』は430万部、『毛主席語録』は10億部出版されたという。


終結

 1970年代に入り、内戦状態にともなう経済活動の停滞により国内の疲弊はピークに達し、それにあわせるかのように騒乱は次第に沈静化していく。その中1971年には従来の中華民国の中国国民党政府が保有していた国際連合における中国の代表権を奪取、翌年にはアメリカのニクソン大統領が訪中し毛沢東と会談を行ったほか、日本の田中角栄首相も中華人民共和国を訪問し、国交樹立されるなど、文革中の鎖国とも言えるような状況も緩和されていった。 そして、1976年1月8日、周恩来首相が死亡、ついで7月6日、軍の最長老朱徳が死亡した。そして、これらを追うように9月9日、毛沢東もまた他界した。毛沢東の権威を背景に権力の掌握をねらっていた“四人組”の受けた衝撃は大きく、彼らは毛の遺書なるもの(〈既定方針通りやれ〉)を盾に体制の建て直しをはかった。しかし、周恩来のあとを継ぎ、首相代理の任にあった党第1副主席華国鋒の反対にあい、10月6日、彼らは逮捕された。“四人組”の計画では、毛沢東亡きあとの権力構造は江青を党主席、張春橋を首相にし、姚・王にそれぞれ重要ポストを与え、党・政の全般にわたって“四人組”支配を貫徹させることにあったという。そうなれば中国はどうなっていたか。華国鋒は危機寸前で中国を救った。劉少奇支持派の国民はこぞってこの快挙を喜んだ。そして、1977年8月に開かれた党の第11回大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結が正式に宣言され、“四人組”が断罪された。当然のことながら、“実権派”といわれ、迫害と追放の身に置かれていたかつての指導者たちの名誉が回復され、鄧小平などが復活した。中国は開放体制をとることを内外に約し、“現代化”政策のもと法制を整えた。


参考

『文化大革命』矢吹晋:著 講談社 1989年

『文化大革命十年史』巌家祺・高皋著:著 辻康吾:訳 岩波書店 1996年

『歴史のなかの中国文化大革命』加々美光行:著 岩波書店 2001年


文化大革命 http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q178L100.HTM


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成