マザー・テレサ3

出典: Jinkawiki



マザーテレサ

<年表> 1910  8月27日、旧ユーゴスラビアのスコピエで生まれる。 1919(9)父ニコラが亡くなる。 1922(12)インドのことを知り、宣教師にあこがれるようになる。 1928(18)9月、ふるさとをでて、アイルランドのロレット修道会に行く。12月、宣教地のインドのダージリンに向かう。 1929(19)1月頃、ダージリンのロレット修道院に入る。5月、テレサという修道名をもらう。 1946(36)9月10日ダージリンにむかう汽車のなかで、神のお告げを強く感じ、スラムの貧しい人々のために働こうと決意する。 1952(42)カーリー寺院の休憩所に「死を待つ人の家」をつくる。 1955(45)恵まれない子どもたちのための施設「孤児の家」をつくる。 1957(47)チタガールにハンセン病の患者のための療養施設「休憩の家」をつくる。 1969(59)ハンセン病患者のための理想の村「平和の村」をつくる。 1979(69)12月10日、ノーベル平和賞を受賞する。賞金と受賞記念のパーティーのための費用は、すべて貧しい人のためにつかわれる。 1981(71)3月、東京でマザー・テレサの写真展が開かれ、5万数千人の入場者を集める。4月22日、初めて日本を訪れる。5月、東京都に「神の愛の宣教者たち」の施設が作られる。 1982(72)4月再び日本を訪れる。 1984(74)11月、三度日本を訪れる。 1986(76)10月、愛知県に「神の愛の宣教者たち」の施設がつくられる。 1997(87) 9月5日 死去

<マザーテレサの誕生> マザーテレサは1910年8月26日、マケドニアのスコピエで生まれた。スコピエは、ヨーロッパ バルカン半島の中央に位置する都市で、多くの民族、そしてさまざま宗教が混在する地域にある。父は二コラ=ボヤジュ、母はドラナフィル=ボヤジュ。両親はどちらも敬虔なクリスチャン。姉アギー、兄のラザールの後に、3番目の子として誕生した。翌27日に洗礼を受け、アグネス=ゴンジャと名付けられる。「アグネス」とはキリスト教初代教会の乙女殉教者の名であり、「ゴンジャ」はアルバニア語で「花の蕾」を意味するという。家族は特に彼女のことを「バラの蕾」と考えていたようである。なぜなら、母の名が「バラ」を意味するからである。ちなみに「マザーテレサ」は修道女としての呼び名である。

<少女時代> マザーテレサは名前の通り、ふくよかで、ぽっちゃりしたかわいい女の子だった。素直できれい好き、年の割には感受性が強く、曲がったことは大嫌い、しかし気立ての優しい子であった。 就学年齢になると、ボヤジュ家の子どもたちは聖心教会のホールにある小学校に通った。教会の若者たちのグループ活動の音楽会・読書会・黙想会に積極的に関わる青春時代を送る。

<父の死> 1919年、突然ボヤジュ一家に不幸が襲い掛かる。父が45歳の若さで急死してしまうのだ。朝は元気に出かけていったのに、突然、血を吐き、帰らぬ人となった。周りの人はその死に釈然としないものを感じ、毒殺の疑いさえもったという。さらに、父の死を契機に、ボヤジュ家の資産は共同経営者に横領されてしまう。豊かだったボヤジュ家に残された財産は、住む家だけというありさまになった。

<修道士になろうと思ったきっかけ> 幼い頃から、絶えなかった戦争、民族の独立を掲げた激しい対立。そんなさなか、愛する父の急死…。そこでマザーが求めたのは信仰による救いだった。来る日も来る日も教会に通い続けた。ある日、マザーは一冊の本に出会う。それは、カトリック聖人アッシジの聖フランシスコの生涯を描いたものだった。聖フランシスコは13世紀イタリアの修道士。イタリアが戦乱で明け暮れる中、神の命を受け路頭に迷う民衆を救うため生涯を捧げた。マザーの心を捉えた聖フランシスコの祈りの言葉を紹介しよう。「主よ あなたの平和をもたらす道具として 私をお使いください 憎しみのあるところには 愛を 不当な扱いのあるところには ゆるしを 分裂のあるところには 一致を」争い、憎しみ合う人々の姿に絶望していたマザー。しかし、この祈りの言葉がマザーの心に一筋の希望の光となって差し込んできた。マザーは自分も聖フランシスコのように生きようと心に誓う。 何年にも渡り、教会に通い続けたマザーは、ある日、神父から興味深い話を耳にする。マザーの通う教会の宣教師が海を越えインドという地で活躍しているということを。それを聞いたマザーは、インドへ行けば、聖フランシスコのように人々を救えるかもしれない。マザーは修道女になってインドへ行くことを決意する。修道女になるというのは家族に二度と会えないことを意味する。そのことを母に告げると、母は驚き言葉を失いましたが、明くる日の朝、穏やかに送り出してくれた。 インドのダージリンへの道中、汽車の中で「神の声」を聞き、修道会を出て、貧しい人、困っている人たちを助けることを決意する。

<修道士としての活動> その後、カルカッタにあるスラム街に移り住む。そして、孤児やハンセン病の人々の為に救済活動を始める。 とても貧しい人に奉仕する「神の愛の宣教者会」を開設する。その頃から、マザーテレサと呼ばれるようになる。そして、1950年にインド国籍を取得する。1952年に行き倒れの人々や重症の人々を収容する「死を待つ人々の家」を設立した。

<マザーテレサの原動力> マザーテレサのいのちの中心にキリストの渇きがある。だから、世界中のマザーの修道院では、聖堂の壁にかけられた十字架像のそばに「われ、渇く」というひとことが書き添えられている。キリストは受難において、渇いた。人間が愛のうちに生きることを切望した。この渇きこそがマザーの原動力である。

<マザーテレサの最期> 1997年9月5日午後9時30分、マザーテレサは87歳の生涯に幕を閉じた。当時、世界中のニュースは一週間前に交通事故で亡くなった英国皇太子妃、ダイアナの話でもちきりだった。その陰に隠れるかのように、できるだけ目立たないようにこの世を去った。マザーテレサらしい最期だったといえよう。 当初、神の愛の宣教者会は葬儀を9月10日に行うと発表していた。9月10日はインスピレーションの日、マザーテレサがダージリンに行く汽車の中で神の声を聞いた日であり、それこそ彼女の出発点となった日である。そして、マザーテレサの愛したシスター方や、親のない子どもたち、ハンセン病の人たちや貧しい人たちに囲まれて、惜しまれ、祝福されて、悲しみと感謝の嵐の中、静かに旅立っていくのがマザーテレサにはふさわしいと思われていたが、マザーテレサの葬式はインド政府の申し出によって、国葬の準備が整う9月13日に行われることとなった。

<最後に…> マザーテレサを知れば知るほど、彼女以上の人はいないし、ほかに比べようのない特別な人だという印象が強くなる。地に足がついた人でありながら、この世にとらわれることはなく、キリストに仕えることをすべてとして生きた人。世界中で宗教を信じる人にすっとこころを通わせる人。世界の最も惨めな場所に出向き立ち向かいながら、明るさ、輝きを届けた人。マザーテレサは全生涯を捧げて、ひとりひとりに命の連帯の輪を広げていった、世界中で誇られるひとである。

参考文献:http://contest.japias.jp/tqj2000/30262/content/mother3.html http://waratte.nosmilenolife.jp/edn/edn081220.html 「マザー・テレサの真実」五十嵐薫/2007.5.7/出版PHP研究所 「マザーテレサ」和田町子/1994.9.30第1刷発行2015.9.10新装版第1刷発行/清水書院 「マザー・テレサ 愛の花束~身近な小さなことに誠実に、親切に~」中井俊巳/2003.10.1第1版第1刷発行/PHP研究所 「マザー・テレサ~貧しい人のために生涯を捧げた聖女~」1992.3.24第1刷発行/1999.4.25 第15刷発行/集英社

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