マッカーサー2

出典: Jinkawiki

目次

略歴

ダグラス・マッカーサー(1880年1月26日~1964年4月5日)は連合国軍最高司令官として活躍した人物であり日本人にとっても印象深いアメリカ人の一人である。マッカーサーは84年の生涯のうち、軍人生活が半世紀にも及ぶ。彼の軍人時代は1889(明治32)年6月のウェストポイント陸軍士官学校から始まり、1951(昭和26)年4月に連合国軍最高司令官・国連軍事司令官・琉球米民政府長官の官職すべてを解任されて退役するまで52年間続いた。主な過程は、参謀本部勤務を経て第一次世界大戦中に准将へと昇進。陸軍士官学校長、陸軍参謀総長(大将)を歴任。米極東軍司令官として太平洋戦争勃発を迎え終戦後は連合国軍最高司令官として日本占領統治の最高責任者となる。朝鮮戦争に際しては国連軍総司令官を兼務するが、1951(昭和26)年4月、トルーマン大統領によってその地位を解任されて帰国する。1964(昭和39)年4月5日、ワシントンのウォルターリード病院で死去。

人柄

ダグラスは父を理想の人格として生涯を通じて尊敬していた。父からは勇気、指導力、行政能力を受け継いだと言われている。しかし、同時に父の欠点を2つ受け継いでいた。それは自分の領域とみなしているところへ文官が口をはさんでくることに対する軽蔑と侮辱、そして自分の管轄権を超えた問題に対して、遠慮ない発言を行うことであった。この二人を知る者は「わたしはアーサー・マッカーサーほど、とほうもなく自我意識の強い人物はないと考えていた」とまでも言うほどだった。フランス戦線で待ち望んでいた実戦を初めて体験したときも、大胆不敵で、常に前線で部隊を指揮しヘルメットを使用しなかったほど。また、マッカーサーには「内向的で社交的ではない」部分があった。気安く接して挨拶するような大衆向きのタイプではなく、生来の貴族で、他人とすぐには打ち解けないタイプであった。レセプションの参列者に温かく挨拶するものの、愛想よく挨拶はしなかったという。その反面、細やかな気配りをするなど、かなり神経質な部分があった。マッカーサーは作戦を決行しているとき、常に死傷者の被害について心配していた。日本軍の反撃による味方の犠牲を心配して躊躇したことも。また、マッカーサーは自制的で禁欲的な人間であった。若いときは酒好きであり、陸軍士官学校の校長を務めたときにつぶれるまで飲んだことがあるほど、戦争以前は飲酒をしていた。ところが戦争開始とともに酒を断った。

年表

1930年11月21日 陸軍参謀長官就任

1941年7月26日 極東陸軍司令官就任

(1944年10月10日 アメリカ機動部隊により、沖縄空爆)

(1945年8月15日 玉音放送)

1945年8月30日 厚木到着

   9月3日 重光とマッカーサーによる会談

   9月15日 GHQ本部設置

   9月27日 昭和天皇との会見

   10月11日 幣原首相に憲法改正と5大改革を要求

1946年2月3日 GHQ民政局に日本国憲法の草案作成を指示         

   2月13日 GHQは松本改正案拒否、GHQ草案受け入れの要求         

   11月3日 日本国憲法配布

1948年12月18日 GHQは経済安定九原則を発表

1950年7月8日 吉田首相宛書簡で警察予備隊の創設などを指示          

   7月8日 国連軍最高司令官にトルーマン大統領によって任命される

マッカーサーの始まり

1899年6月、当時19歳のダグラス・マッカーサーはウェストポイント陸軍士官学校に主席入学する。父のアーサー・マッカーサー二世(Arthur MacArthur のちに陸軍中将)はフィリピン軍事総督として米西戦争後のマニラ占領に関与したほか、現地の反乱鎮圧に従事していた。ダグラスはそんなアーサーを深く尊敬していたが、1903年6月に首席で卒業するも、父であるアーサーはそのときフィリピン初代総督、ウィリアム・タフト(William H. Taft)と対立し、本国に召還されたあとであった。しかし、それでもダグラスは陸軍のエリートコースである工兵隊を志願し、同年の10月には少尉としてフィリピンに赴任。これがマッカーサーとフィリピンとの初の邂逅であった(当時23歳)。彼はマニラ軍管区勤務となり、マニラ湾の改良、コレヒドール島の要塞構築、バターン島の道路建設などに関与したが、マラニアにかかり、翌1904年10月に帰国を余儀なくされ、彼のフィリピン赴任はおよそ1年で終わってしまう。日露戦争の観戦武官として満州に派遣されていたアーサーによって1905年駐日アメリカ大使館付武官の副官として日本へ呼び寄せられた。10月に東京に到着し、両親との8か月に及ぶアジア視察旅行を通してアジアを身近な地域としていった。1919年に帰国。私生活ではルイーズ・クロムウェル(Louise Cromwell Brooks)と結婚し、「軍神と百万長者の結婚」といわれ世間に騒がれた。しかし、華やかな社交界好みのルイーズと、仕事優先で厳格な生活を好むマッカーサーとの結婚生活は七年で終わってしまう。1929年に正式に離婚する。(以後、マッカーサーは1937年にジーン・マッカーサーと二度目の結婚をしている。)

マッカーサーと戦後日本

日本占領  

1945(昭和20)年8月30日、日本への上陸を無事に果たし、厚木飛行場に降り立った。9月2日には東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で歴史的な日本降伏調印式が挙行された。マッカーサーはマイクに向かい、「われわれは相互不信や悪意あるいは憎悪の精神を持ってここに集まったのではない。むしろ戦勝国もまた敗戦国も共にわれわれが果たさんとしている神聖なる目的に沿いえる、唯一の崇高な理念に向かって立ち上がるために集まったのである。(中略)この、厳粛なる決意により、過去の流血や蛮行に終始符を打ち、人間の威厳に献身し、自由、寛容、正義という人類多数の願望を達成するようなより良い世界が出現することは、私の希望であり、また全人類の希望でもある」と述べている。歴史に精通するマッカーサーらしい心憎い演出であった。日本本土への駐留を終えたマッカーサー軍は、ただちに占領政策を実施する総司令本部の設置にとりかかった。すでに、GHQ内に占領行政を担うG5、軍政局(MGS)が新設されていたが、9月15日に経済科学局(ESS)、22日には民間情報教育局(CIE)が軍政局から独立し、10月2日には軍政局自体が消滅した。また、同じ日に連合国軍最高総司令部(GHQ/SCAP)が創設された。  


占領行政の開始

マッカーサーとGHQが初期段階で着手したことは、日本に長らく抑留されていた連合軍の捕虜解放と、ポツダム宣言第九項「日本国軍ハ完全ニ武双ヲ解除セラレ(下略)」に示された日本軍の武装解除であり、また第六項「吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆遂セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義の新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スル(下略)」に基づいて、東条英機ら政治・軍事指導者を戦犯として逮捕することであった。これらはいずれも、マッカーサー自身の強い意向が働いていた。また、マッカーサーは対敵謀報部(CIC)部長のソープが厚木に到着した際、「東条を捕らえよ。そしてほかのA級戦犯のリストを作れ」と命じる。なお、陸海軍の武装解除に前後し「公民権指令」を発する。治安維持法など、政治的、民事的、宗教的自由を制限したすべての日本の法規が廃止された。また他にも、新聞の検閲は停止され、政治犯は釈放され、国民から恐れられた憲兵隊は解体され、さらには新内務大臣以下、警視総監ら警察首脳、特高関係者6000名が罷免された。


日本の疾病と食糧難  

敗戦直後の日本の食糧難は非常に深刻であった。このような非常事態におけるマッカーサーの姿勢は、日本人自体に比重を置くということだった。 マッカーサーの支持のもとに食糧事情の改善に力を尽くしたクロフォード・F・サムス(Crawford F Sams)は、避難民への食糧供給を実施。他にも家屋の建設、衣服の供与や水不足の解消にも積極的に関与した。サムスは自分を応援してくれるマッカーサーへの恩義と忠誠を示すため、自己に圧力をかけた。それくらいサムスにとってマッカーサーは偉大な人であった。


新憲法  

1945年10月4日にマッカーサーは近衛文麿元首相に対して、大日本帝国憲法の改正の必要性を示唆。しかし、翌日に同内閣が解散したため、後任首相の幣原にも命じた。そこで、松本丞治国務相を中心に「憲法問題調査委員会」が組織され、翌46年2月初めに委員会試案(松本案)が作成されたが、その内容は明治憲法と本質的に変わらなかったため、マッカーサーは承諾できなかった。結局、新憲法草案をフィリピンの民主化で業績を上げた元弁護士のホイットニーに起草するよう命じた。日本にGHQ案を採用するよう求めた。GHQ案の眼目は主権在民と天皇の象徴化、そして戦争放棄であった。戦争放棄に関しては、「国権の発動たる戦争は廃止する。武力による威嚇または武力の行使は、他国間との紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍その他の戦力は、決して認められることはなく、また交戦権も国家に与えられることはない」となっており、幣原首相は戦争放棄の内容には同意しながらも、一方的な日本の戦力不保持と交戦権の否認には同意できないことをマッカーサーに述べたが、マッカーサーはそれを説得し、幣原首相は不本意ながらの同意となった。そして、日本国憲法は1947(昭和22)年5月3日に施行される。


学校教育の民主化  

1945年10月、マッカーサーは幣原首相に「日本の民主化に関する五大改革」を提示し、学校教育の民主化を要求した。続いて、GHQは「日本の教育制度に管理政策」という教育改革を指令。教職パージが実施され、総勢7000名の教員が教育界から追放される。また、12月には国家神道を排除し、天皇崇拝や超国家主義に基づく考え方を児童生徒に鼓吹してはならないとの指令が出され、修身・日本史・地理を教えることが禁止された。さらに1946年3月には、第一次アメリカ教育使節団からマッカーサーに「戦後日本の教育改革の基本」が提示された。これは、過去の日本の教育が中央統制的で画一的なものであったことを批判し、今後の教育は個人の価値と尊厳を基礎とした教育へと転じる必要があり、新たな教育の目標を必要な知識を備え、かつ自由な探求精神を持った市民の育成に置くべきであるということを勧告していた。


内務省解体  

内務省は明治初期に創設されて以来、官庁の中の官庁として絶大な権限を有してきた。その政治基盤は地方行政と警察にあった。つまり、府県知事の任命権ばかりでなく、府県庁の警察部長などの人事権も内務大臣が握っており、知事の大半が内務官僚であったため、内務省の影響は絶大だった。その後、文部・司法・厚生各省に部分的に権限が移譲されたものの、終戦時まで地方行政を担当する地方局、警察関係を扱う警保局、河川や道路を担当する国土局、朝鮮・台湾・樺太等を取り扱う管理局のもと、内政の要として大きな権限を保持した。しかし、チャールズ・ルイス・ケーディス(Charles Louis Kades)はこの巨大な組織に注目し、アメリカの対日政策の基本である非軍事化・民主化にとって内務省が阻害要因であると考え始める。第一歩が、1945年10月のマッカーサーによる「人権指令」であった。さらに、警察官僚、地方部の主要官僚がパージの対象になった。このようにして、内務省に繰り返し衝撃を与えながら、内務省廃止に関する法案が準備され、GHQ側との協議を経て、8月に衆議院に上程された。その後、地方自治委員長案に代案が作られたほか、国家地方警察本部、国家消防庁、法務庁といった機能別の新組織が出来上がった。これらの法案が12月中に国会を通過した結果、内閣省は消滅した。 このようにして日本の非軍事化・民主化政策は行われた。

マッカーサー解任後

1951年4月11日の午前1時、トルーマン大統領(Harry S.Truman)により、緊急記者会見の場で「マッカーサー元帥を指揮官としてのすべての権限から解任する」と発表された。マッカーサーの後任にはリッジウェー第八軍司令官(Matthew Bunker Ridgway)が任命された。「マッカーサー解任」のニュースは全世界にショックを与えた。占領期の日本にとってマッカーサーは、かつて神聖にして侵されざる現人神であった昭和天皇の権威をもしのぐ絶大で最高の権威者と見なされてきたため、日本でも解任を惜しまれた。朝日新聞記事には「われわれに民主主義、平和主義の良さを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマッカーサー元帥であった。」とマッカーサーを称賛し、解任を惜しむ記事を掲載した。こうして、マッカーサーの半世紀にも及ぶ軍人の生活に終止符が打たれた。それでもマッカーサーは闘争心を失うことなく、大統領選挙に意欲を示し、トルーマン政権に対する悪意に満ちた党派性の強い攻撃を行って注目を集めたが、党内への影響力はなく、シカゴで開催された大統領候補者指名の共和党大会はマッカーサーが公衆の前に出る最後の場となった。大統領候補者に指名されたのはかつての部下であったドワイト・D ・アイゼンハワー(Dwight D.Eisenhower)であった。この時点でマッカーサーの大統領の夢は完全に断たれた。 1964年4月5日、享年84。マッカーサーの生涯は終わった。今もその棺はノーフォークのマッカーサー記念図書館ホールに納められている。  


  (参考文献)

増田 弘 著  マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ

袖井 林二郎 著  マッカーサーの二千日

http://www.c20.jp/p/macart_d.html

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