マッカーシズム

出典: Jinkawiki

アメリカ合衆国のウィスコンシン州選出上院議員ジョゼフ・R・マッカーシーの活動に代表される反共ヒステリー現象、熱狂的な「赤狩り(共産主義者攻撃)」のことをいう。 マッカーシズム出現の直接的契機となったのは、1949年の中国革命の成功によって、アメリカの伝統的市場であった中国市場が失われたことにあった。また同年にはソ連が原爆実験に成功して、アメリカ国民に大きな衝撃を与えた。その後の、第二次世界大戦後にソ連が世界を二分するアメリカのライバル国へと成長したことや中国が毛沢東のもとで共産化し、第二の共産主義大国へと成長し始めたことがなども原因とされている。しかし、それ以上に重要だったことは、アメリカの国内にも共産主義が浸透しつつあり、労働者階級だけでなくインテリ層にまで拡がりをみせていおり、国際情勢が期待通りにならないのはこのせいだとマッカーシーは考え、「赤狩り」を行う。この目に見えない国内の政敵に対し、アメリカ政府はFBIなどによる調査を行わせたが、本質的に人間の心の中まで見通すことは不可能なだけに、その対処に苦労していたため、そんな状況を打開するために行われたのが、疑わしきは摘発、除外してしまえという荒っぽい戦法だった。政界におけるマッカーシズムは、マッカーシーの1950年2月9日の演説によって始まる。ウエストヴァージニア州ホイーリングという街で行われたリンカーン誕生記念祭の祝賀会での演説で、マッカーシーはアメリカの国務省には多くの共産党員がいて、彼らによって外交政策の方向性が変えられつつあると述べ、自分はそれらの共産党員やスパイらのリスト205名分を入手したとも言ったことが発端となっている。この演説によりマッカーシーは第二次世界大戦後の国際的な共産勢力の拡大のなかで、アメリカ国民の不安を刺激した反共の英雄として、マスコミの人気の的となった。

マッカーシズム台頭の背景として、トルーマン政府による世論の反共的動員などがあったことも指摘できる。トルーマン政府は、1947年3月トルーマン・ドクトリンの発表と相前後して、連邦政府職員の忠誠審査令を出して思想統制を強化し、48年の大統領選挙に進歩党から出馬した対ソ協力派のヘンリー・ウォーレス元副大統領を容共的であると非難、攻撃するなど、国内反共体制の整備を推し進めていたのである。また議会においても、下院非米活動委員会を中心に、共産主義活動の調査が大々的に展開され、対ソ協力派や一部のニューディーラーに対する攻撃が続けらていた。マッカーシーは上院査問委員会の委員長を務め、とくに国務省内の中国通、中国専門家などに攻撃の矛先を向けた。そして、アジア問題の権威オーエン・ラティモア教授や国際法のジュサップ教授らも槍玉にあげられ、トルーマン大統領やアチソン国務長官も共産主義に対し弱腰であると非難されるありさまであった。

マッカーシーは、国内の共産主義活動の脅威を誇大に強調して国民の支持を集めたが、マッカーシズムの犠牲になった人々の多くは非共産主義者であった。共産主義の脅威の名のもとに、多くの自由主義者が公職を追放され、市民的自由の抑圧も進行したのである。こうしたなかで、有力な政治家や知識人の間では、保身のために強硬な反共路線を打ち出す傾向が強まった。こうして、1930年代のニューディールのリベラルな風潮は、すでに40年代後半の冷戦政治の文脈のなかで保守化しつつあったが、マッカーシズムの嵐のなかで窒息させられていったのである。また、アメリカの外交政策もマッカーシズムの影響のもとで、いっそう硬直的な反共路線を進むことになる。マッカーシーは54年、赤狩り攻撃の行きすぎの不当性を指摘され、上院の査問決議で失脚したが、マッカーシズムはアメリカ社会に深刻な衝撃を与え、内政、外交に大きな悪影響を及ぼしたといえよう。


参考文献

『保守と反動――現代アメリカの右翼』みすず書房 D・ベル編 斎藤真・泉昌一訳  1958

『マッカーシズム』岩波文庫 R・H ロービア著 宮地健次郎訳


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