不敬罪
出典: Jinkawiki
不敬罪とは 国王や皇帝など君主や、王族、皇族など君主の一族に対し、その名誉や尊厳を害するなど不敬とされた行為の実行により成立する犯罪のことである。不敬罪は、絶対君主制など、主権者たる君主と国家の存立を同一視する体制において定められることが多い。現在では、不敬罪は、国民の自由(特に思想・良心の自由、表現の自由)を過度に制約する恐れがあるため君主制を採用している国でも廃止・失効している場合が大半である。 日本では、不敬罪は1880年(明治13年)に公布された旧刑法において明文化された。この規定は、1907年(明治40年)に公布された現行刑法に引き継がれた。その後、不敬罪(74条、76条)を含む刑法第2編第1章(「皇室ニ對スル罪」、73条から76条まで。)は、1947年(昭和22年)に削除されている。不敬罪で起訴になった最後の事件は1946年5月の食糧メーデーにおけるプラカード事件である。この刑法第2編第1章には、不敬罪のほか、天皇・皇族等に対して危害を加える行為(未遂を含む)を加重処罰する罪(73条、75条)も定められていた。危害罪も含めた「皇室ニ對スル罪」全体を不敬罪と呼ぶこともある。
不敬罪に関する主な事件 ・天皇機関説事件(美濃部達吉) 1934年(昭和9年)、国体明徴運動が起こり、天皇機関説が排撃され始めた。1935年(昭和10年)貴族院本会議において、菊池武夫議員により天皇機関説非難の演説が行われ、軍部や右翼による機関説と美濃部排撃が激化する。これに対し美濃部は、「一身上の弁明」と呼ばれる演説を行う。書は発禁処分となり、不敬罪の疑いで検事局の取調べを受けた(起訴猶予処分となっている)。同年9月、美濃部は貴族院議員を辞職し、公職を退いたものの、翌1936年(昭和11年)には、天皇機関説の内容に憤った右翼暴漢の襲撃を受けて重傷を負った。この一連の天皇機関説事件の中で、政府は2度わたって「国体明徴声明」を出し、天皇機関説は異端の学説と断罪した。
・内村鑑三不敬事件(第一高等中学校不敬事件) 内村 鑑三とは、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者である。明治23年(1890年)から第一高等中学校の嘱託教員となったが、翌年(1891年)の1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼をおこなわなかったことが同僚・生徒などによって非難され、それが社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであるが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。
・プラカード事件(食糧メーデー不敬事件) プラカード事件は、1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデー(飯米獲得人民大会)の際に、参加者の一人である日本共産党員・松島松太郎が掲げた「ヒロヒト詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ 日本共産党田中精機細胞」のプラカードが、当時まだ有効であった不敬罪に問われた事件のことである。 松島は不敬罪で起訴されたものの、一審は不敬罪を認めず、天皇個人に対する名誉毀損のみが認められ、控訴審は不敬罪を認定した上で、新憲法公布に伴う大赦令により免訴の判決を下した。上告審は無罪判決を求める被告の上告を棄却した。多数意見の理由は、大赦により公訴権が消滅しているので、裁判所はこれ以上の実体審理をなしえない、控訴審の実体審理は違法だが、免訴の結論は正しい、というものである。この事件では法的に日本国憲法と不敬罪というテーマが問題となるはずであったが、最高裁は免訴判決を下すことによってこの問題についての判断を避ける形となった。本事件での最高裁判決は免訴判決の法的性質という刑事訴訟法上の重要問題についての先例となっている。
参考文献
横坂健治 「天皇と不敬罪」「憲法判例百選II 第5版」 小沢三郎 内村鑑三不敬事件