中東戦争4
出典: Jinkawiki
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第一次中東戦争
第二次世界大戦後、アラブの独立国はアラブ連盟を結成した。また、植民地支配下にあった地のアラブ地域も次第に独立へ向かった。しかし、イギリスの委任統治領が終了するパレスチナでは、それまで移住していたアラブ人と、ヨーロッパからのユダヤ移民がそれぞれに独立国建設をめざしたため、紛争が深刻となった。 国連は1947年にパレスチナ分割案を決議したがアラブ側が分割を不当として拒絶し、イギリスは紛争を解決せずに一方的に撤退した。そのため、ユダヤ国家としてイスラエルの建国が宣言され、近隣のアラブ諸国との間に戦争がおこった。戦争は翌年まで続き、イスラエル側が国連決議の割り当て以上に大きな領土を獲得し、休戦にいたった。アラブ諸国とイスラエルの紛争はその後も続き、いくども中東戦争は起こることとなった。
第二次中東戦争
パレスチナの人々は祖国を失い、多くの人々が難民として近隣のアラブ諸国に流入した。パレスチナ難民を救済するために、国連はパレスチナ難民救済事業機関を創設した。アラブ諸国ではイスラエル建国の衝撃から、アラブ民族主義が強まった。1952年のエジプト革命ではアラブ民族主義を掲げるナセル政権が成立し、スエズ運河の国有化やアスワン=ハイダムの建設などを推進した。エジプト共和国がスエズ運河お国有化した際には、イギリス・フランス・イスラエルとの間でスエズ戦争が起こった。さらに、1958年のイラク革命1962年のイエメン革命、1969年のリビア革命などによって次々と共和国が誕生した。
第三次中東戦争
1967年にエジプトがイスラエルの紅海への出口の封鎖を宣言してはじまった。この戦争は短期間でイスラエル側の勝利におわり、イスラエルはエジプト領のカザ、シナイ半島、シリア領ゴラン高原、ヨルダン領ヨルダン川西岸を占領した。被占領地の回復をめざすエジプトは1973年にシリアをさそってイスラエルを攻撃し、アラブ諸国は石油戦略を用いて国際政治では優位にたったが、軍事的には決着がつかなかった。
第四次中東戦争
これにより、武力によるイスラエルの解体とパレスチナ解放えお主張していたアラブ民族主義は陰険に向かった。国連は平和の達成と占領地の返還を求める決議を採択し、それがのちの和平交渉の基礎となった。しかし一方でパレスチナ解放機構は武力闘争による祖国解放をめざすようになった。 豊かな石油資源をもつ産油国が影響力をもちはじめたこともあり、ペルシア湾岸では1971年に3か国が独立し、湾岸のすべての国が独立をとげた。ナセルのあとをついだエジプトのサダトは1973年にシリアとともにイスラエルを攻撃した。
参考文献 帝国書院 新詳 世界史B