人形浄瑠璃
出典: Jinkawiki
・人形浄瑠璃とは
劇と語り物の接点に立つ舞台芸術のことである。 一般に浄瑠璃の語りに合わせて演じる人形劇全般の称であるが、狭義には義太夫節を使い、三人遣い形式によるものをさす。現在では、唯一の専門劇団である『文楽』のことを意味する。江戸時代には操浄瑠璃または操芝居と呼んだ。 なお、人形浄瑠璃と歌舞伎とは約四百年に及ぶ歴史の中で相互に影響し、競合しながら歩んできた。
・歴史
古浄瑠璃(1590年代~1680年代)
人形浄瑠璃は文禄・慶長(1592~1615)のころ、浄瑠璃と夷かきが結びついて発生した。人形浄瑠璃は時流に乗って大いにもてはやされ、慶長の終わりから元和(1615~24)ごろには京都はもとより、江戸をはじめとする全国各地で興業されるようになった。しかし、舞台は小屋仕掛けの粗末なもので、人形も一人遣いで簡単な動きしかできず、さらに浄瑠璃も単調な曲節であり、物語も神仏の霊験記などの素朴なものであった。 浄瑠璃が流行すると演者の数も増え、それぞれに工夫を凝らして一派を立てる者が続出し、技芸を競うようになった。 江戸では、1615年に杉山丹後掾が最初に浄瑠璃興業を行った。杉山一門の柔らかな芸風に対し、沢住検校門下の薩摩浄雲は硬派の代表で、豪快な語り口が江戸の人々の好みに当たったため大いに繁盛した。 一方上方では、播磨掾が情緒的で愁いのある芸風に長じ、播磨節をたて人気を集めた。 また、竹本義太夫は大阪道頓堀、現在の浪花座の位置に竹本座を創立した。 この竹本座旗揚げまでの各派浄瑠璃を総称して「古浄瑠璃」とよんでいる。
近松・義太夫時代(1680年代~1720年代)
竹本座を創設した竹本義太夫は、歌舞伎と肩を並べる義太夫節を創始した。 義太夫はそれまでの各派浄瑠璃の長所を集大成して、さらに自らの工夫も加えた。さらに、作者に近松門左衛門、三味線に竹沢権右衛門、人形遣いに辰松八郎兵衛らの名手を得、「浄瑠璃」といえば「義太夫節」を意味するまでに大成させた。 義太夫節の特徴は、古浄瑠璃と比較して詞が写実的に語られること、地の文も一字一句詞章に即し綿密に節付けされること、単に優美・哀調・豪快等の情趣を漂わせる以上に、劇的緊張感の醸成に最も注意が払われていることなどがあげらっる。 戯曲の内容は近松門左衛門を作者として得たことで、文学として飛躍的に高度になった。神仏霊験譚や武勇伝から、人情の機微をうがった華麗なロマンへと発展し、さらに『曽根崎心中』に始まる「世話物」が創造された。 また、戯曲の構成も時代物の五段組織が定着した。 一方人形についてはあまり進歩がなく、片手遣いの小さなもので幕を張った陰から、人形を上に差し出して演じていたが、 やがて場面に応じて道具を飾るようになったり、からくりを利用して本水を用いる舞台も現れた。
浄瑠璃全盛期(1720年代~1751年代)
1703年、初代義太夫の門弟豊竹若太夫が竹本座から独立し、豊竹座を創設した。若太夫は持ち前の美声と経営的手腕で地歩を固め、初代義太夫、近松没後の浄瑠璃界は竹豊両座対抗時代を迎えた。この両座の競争により、浄瑠璃界はいっそう活気を帯び、技術面でも急速な充実を示した。これより1765年に豊竹座、1767年に竹本座が相次いで転退するまでの約60年間を操浄瑠璃の黄金時代で、一般的に竹豊時代と呼んでいる。
中学校社会科では、17世紀後半~18世紀初めごろに京都や大阪など上方を中心に生まれた、元禄文化で人形浄瑠璃が扱われる。
この時代は、世の中が安定し、町人たちが富を蓄えることができた時代であった。
そのため、元禄文化は華やかであり、人間らしい生き生きとした感情や生活が表れているという特徴がある。
参考文献
廣瀬久也(著) 2001 人形浄瑠璃の歴史 戒光祥出版
大口勇次郎他(編) 2001 新中学歴史 清水書院
信多純一他(編) 1991 人形浄瑠璃舞台史 八木書店
渡邉静夫(編) 1987 日本大百科全書 小学館