加藤清正

出典: Jinkawiki

加藤清正は永禄5年、清忠の二男として尾張国中村に生まれる。幼名は夜叉丸。幼時から秀吉に臣従し、元服して虎之助清正と名乗った。天正11年、賤ヶ岳の戦いの功で七本槍の一人とされ、3千石をもらう。5年後の天正16年、数々の戦歴の功により肥後半国19万5千石を与えられ、熊本城に入る。文禄元年の文禄の役では、二番隊長として1万人を率いて渡海、釜山から破竹の勢いで北上し京城を占拠。また、このおりの虎退治の逸話は有名。慶長元年、石田三成に讒訴され伏見に蟄居するが、大地震のとき秀吉のところへ馳せ参じ、忠節を認められ罪を許された。慶長2年の慶長の役の際、蔚山城で明の大軍に囲まれ苦戦。慶長5年、関ヶ原合戦が勃発した際、九州にいて東軍に味方し、その功で肥後一国54万石(球磨・天草郡を除く)を与えられる。慶長16年、豊臣秀頼を二条城で家康と会見させた後、病に倒れて熊本城で没する。

清正に関しては色々な話がある。たとえば、清正の重臣・飯田覚兵衛は後年、「私は清正公に一生だまされ続けた。初めて戦に出た時、仲間の多くが討死したので、恐ろしくなって武士はやめようと誓った。ところが、城へ戻ると清正公が、『今日のお前の働きはたいしたものだ』と讃え、刀をくれた。その後も何度か奉公をやめようとしたが、そのたびに陣羽織や感状などを賜るものだから、ついつい機会を失い侍大将になってしまった。」と回想している。このように巧みな嘉賞と褒賞によって家臣の心をつなぎとめたのである。
またこんな話もある。宇多尾城を墜落させた際、清正は庄林隼人の武功を一番、森本儀太夫を二番とした。森本はこの序列を知ると激怒し、「こんなに見る目のない主君に仕えていても馬鹿らしい」と座を立とうとした。森本が敵将の首を2つ奪ってきたのに対し、庄林は1つも取ってきていないのだから怒るのも無理はなかった。しかし、このとき清正は、「庄林は首をあげていない。けれど、私を補佐して全軍を進撃させ、個人の功名を捨てた。それに対しておまえは確かに首を2つ取ったが、私がそれを確認したのちに捨てた。それは、お前が自分の功ばかりを考え、主君への忠を第二にしている証拠だ」と言ったのである。これを聞いてさすがに森本も承伏せざるを得なかったという。


参考文献
・「ふるさとの戦国武将」学研


  人間科学大事典

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