北条政子

出典: Jinkawiki

北条政子 

  鎌倉初期(1157~1225)、源頼朝の妻。北条時政の娘。伊豆配流中の頼朝と結婚し、鎌倉幕府御台所の地位に就き、頼家・実朝・大姫・乙姫の4人の子を生み、頼朝の死後、出家して尼となり、父時政・弟義時とともに幕府政治を掌握。牧の方の陰謀を察知して時政を隠退させ、実朝死後は4代将軍として京都から九条頼経を迎え、みずから後見人となる。「尼将軍」といわれ、承久の乱(1221)に際しては御家人の動揺を抑えて幕府の危機を救う役目を果たした。中世社会における女性の在り方や、現代のジェンダー(社会的に作られた性差)について北条政子の生涯は考え深い事項である。 

牧の方の陰謀

  時政の後妻で政子の継母にあたる牧の方が、自分の娘婿の平賀朝雅を将軍したいという野望のために実朝を害しようとしたもの。1203年に実朝(当時は千幡)の乳母であった政子の妹阿波局により、牧の方が害心を抱いているらしいと告げられた政子は北条時政邸に移っていた実朝を即座に引き取り、元服した実朝は将軍の座についた。この二年後の1205年(元久2)、牧の方は、畠山重忠が平賀朝雅の悪口を言ったことを理由に、時政に畠山を討つように働きかけ、その気になった時政は義時らに計った。かえって諌められたものの、その翌日、大勢の武士たちに、謀反の者どもを討つよう招集がかけられ、畠山重忠父子を討ち、鎌倉で行われた合戦で畠山一族は滅亡した。政子は幼少の実朝に代わり、勲功の者たちに新恩所領宛がった。しかし、乱後も牧の方が実朝を害そうとしていることが明らかになり、政子は実朝を自分の所に迎え取り、時政と彼につき従った武士たちを義時の屋敷に呼び、出家させた。その翌日、時政は牧の方とともに伊豆北条へと下り、二度と鎌倉へは戻らず、九年後に伊豆で死去した。


承久の乱

  1221(承久3)年、京都の朝廷と鎌倉幕府との間におこった争乱。 公家勢力の回復を志していた後鳥羽上皇は、源頼朝死後相次ぐ有力御家人の反抗など幕府内の混乱と将軍実朝の死(1219)を契機に、討幕計画を進め、北条義時追討の兵を挙げた。しかし、北条政子・執権義時を中心に団結し上洛した幕府軍に大敗した。幕府は仲恭天皇の廃位、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇の配流、朝廷方公卿・武士の所領没収と新補地頭の設置、六波羅探題の設置などを行い、その結果、公家政権は衰え、幕府権力は確立し北条氏執権体制が進展した。

引用・参考文献

2000 野村 育世(著) 歴史文化ライブラリー99 北条政子 尼将軍の時代 吉川弘文館

2000 日本史事典 三訂版 旺文社

2004 広辞苑 第五版 岩波書店       

ハンドルネーム:マンメルモール


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