原爆ドーム

出典: Jinkawiki


これは世界の遺産のなかでも「負の遺産」とよばれるもののひとつである。他には、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所や、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群がある。いずれも、未曾有の過ちを二度と繰り返してはならないとの思いがこめられた結果の、世界遺産への登録である。  しかし、原爆ドームの登録を決める会議では、原爆を投下したアメリカh反対し、中国は日本の戦争への反省が足りないとの理由で棄権し、満場一致での登録決定ではなかった。  原爆ドームの所在地は、広島県広島市中区大手町1丁目10。爆心地とされる、島外科という病院から南東に160メートルほどのところにある。  このあたりは、陸路と川の交通の便がよく、江戸時代から栄えていた。明治維新後は、県庁舎や市長舎など、広島の政治、経済、行政の中心となった地域である。  原爆ドームを設計したのはチェコの建築家ヤン・レツル。全体は三階建てだが、正面中央は五階まであり、さらに楕円形のドームが載っていた。このドームは銅板でつくられていた。  建てられたのは、1915年のことで、広島県物産共進会のために建てられ、共進会が終わった後は、広島県物産陳列館として使われていた。名称はその後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と変わり、運命の日、1945年8月6日を迎えた。  この日の午前8時15分、アメリカ軍の爆撃機が投下した、「リトル・ボーイ」というコードネームの原子爆弾は、すさまじい大爆風を起こし、広島市を炎上させた。  産業奨励館にいた人はすべて即死した。建物は爆風と熱線により壊滅的打撃をうけたが、奇跡的に、本館中心部は倒壊を免れた。当初は原爆の悲惨さを記憶するために残しておこうという意図はなく、単に放置されていただけなのだが、いつしか「原爆ドーム」と呼ばれるようになり被爆の象徴となった。  原爆ドームの周辺は、平和記念公園となり、慰霊碑をはじめとするモニュメントが50あまりが建てられている。中心的な建造物である、広島平和公園の平和の灯、平和の池、原爆死没者慰霊碑、平和記念資料館、そして「嵐の中の母子像」をつなぐ線は直線となり、それは原爆ドームにまでつながっている。これはもちろん意図したもので、設計したのは丹下健三である。  原爆ドームは1995年に国の史跡に指定され、その翌年に世界遺産に登録された。


記入者 mk


参考文献

●この一冊で日本史と日本地理が面白いほどわかる! (歴史の謎研究会)

●週刊 ビジュアル日本の歴史 NO,20 近代への道10


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成