均田制

出典: Jinkawiki

○均田制(きんでんせい)
 均田制とは、中国において5世紀に南北朝時代の北魏で始まり、8世紀の唐の中ごろまで行われた土地制度のことである。国家が国民に対して一定の土地を与え、そこから得られる収穫の一部を国家に納め、一定期間が過ぎれば土地を返却するという形式で行われた。日本でも唐の制度にならって、大化の改新の際に班田収授法として取り入れられた。  民を戸籍に登録し、その中の労働に耐えうる人間に対して一定の年齢になると、返還しなければならない口分田と売買・世襲が認められる永業田を給付し、その一定額の給付に対して定額の租・庸・調(租庸調)の納税を求める。口分田は1代限りの使用、永業田は子孫に伝えることができた。租庸調は丁男に定額で課された税のことで租は粟2石、庸は年20日の労働、調は絹類2丈と綿3両(麻ならば麻布2丈5尺と麻3斤)とされていた。

○北魏の均田制
 北魏では485年に均田制が施行された。丁男(15~69歳の男子)に露田40畝(穀物栽培の土地、唐の口分田のこと)、婦人(丁妻)に20畝を支給した。この露田を正田といい、多くの場合ほかに同額の倍田が与えられたが、これは農業技術水準の低かった当時では同じ土地で連作が不可能なために設けられたものである。露田は当人が死亡もしくは70歳に達すると国家に回収された。このほか丁男には絹の産地では桑田20畝(桑・棗・楡を植える土地、唐の永業田)が、また麻の産地では麻田10畝(麻を植える土地)が支給された。そのほか園宅地(菜園と宅地)などの支給もあり、地方官にも地位に応じてのちの職分田にあたる一定の土地が与えられた。このうち露田と麻田は還授されたが、桑田は世襲が認められた。

○唐の均田制
 隋に代わった唐では原則として隋の制度を踏襲し、丁男(21~59歳)には永業田20畝・口分田80畝の計1頃(約5.5ha)と若干の園宅地が支給された。このうち永業田は子孫に世襲され、売買も比較的自由であったが、口分田は支給された当人が死亡もしくは60歳に達すると、全部もしくは一部が国家に回収され、原則として売買は禁じられていた。そのほか老男・身体障害者・寡婦・丁男のいない戸主・商工業者・僧侶・道士・特殊身分のものへの土地の支給も規定されていた。また官吏には、官位・勲等に応じて100頃以下の官人永業田や職分田など種々の名目の土地が与えられた。唐では土地の支給に対する代償として丁男に租庸調・雑徭が課せられた。このような均田制をはじめとして租庸調制・府兵制などのいわゆる律令体制を整えることによって唐は中央集権体制を確立したが、職分田は有力者や農民に賃貸され、また永業田や口分田でも小作関係が行われるようになり、7~8世紀には農民の流亡や階層分化は一層進んだ。貨幣経済と大土地所有の進展および租税その他の重圧による農民の没落が顕在化する状況をふまえて、780年に両税法が施行されると均田制はその役割を終えた。
 日本の班田収授法は、この唐の均田制の影響を受けている。


参考文献
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(均田制)
http://kids.gakken.co.jp/jiten/2/20021240.html
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/terms/a1kindensei.html
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F106L100.HTM

ハンドル名:charmmy


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