富国強兵
出典: Jinkawiki
富国強兵 (1)地租改正 欧米との国力の差を痛感した明治政府は、欧米諸国に対抗するため、先進国から新しい技術や制度を学び、経済を発展させて国力をつけ、軍隊を強くすることを目指した(富国強兵)。そのために国家財政を安定させることが求められた。 明治の初期、国家の収入の多くは農民が米で納めていた。しかし、この方法では豊作や不作で米価が変動するため、国家の収入は不安定であった。そこで、近代的土地所有制度の確立と安定した租税を得るために、地租改正を行った。全国すべての土地の所有者と土地の値段(地価)を定め、土地の所有者に地券を与えた。そして、1873年、地租改正条例を公布し、地価の3%を租税として現金で納めさせることにした。地租改正は全国の土地の所有者と土地の値段を調査しなければならないため、調査が終了したのは1880年前後のことだった。地租改正により、農民の土地所有権が認められ、売買も自由に行えるようになった。また、政府の収入を安定させることに成功した。しかし、地価はこれまでの収入を減らさない方針できめられたため、農民の負担は江戸時代と変わらなかった。年貢負担を期待した農民たちは、地租改正反対一揆を各地で起こした。その結果、1877年は地租は3%から2・5%に引き下げた。
(2)徴兵令 富国強兵のためには、近代的な軍隊が必要であった。1873年政府は「国民皆兵」の名のもとに、20歳以上のすべての男性に3年間の兵役を義務づける徴兵令を公布した。これに対して、これまで軍事に担当していた士族は自分たちの特権を奪われたことに不満を募らせた。また、新たに負担が増えることを嫌った民衆は、徴兵反対一揆をおこした。 この徴兵令には多くの免除規定が存在していた。具体的には、①役人、陸海軍生徒、官立専門校生徒、外国で勉強している者や医学を学んでいる者 ②一家の主人、跡継ぎ、養子、父母の代わりに家を治める者③代わりの人を立てるお金270円を支払える者などである。 そのため、これを利用して兵役を逃れる人々が続出した。1874年に徴兵を免除された者は全体の約82%に達し、貧しい家の次男、三男が多く徴兵される結果となった。
(3)学制 明治政府は、フランスの近代的な学校制度にならって、1872年に学制を発布した。これにより、6歳以上のすべての男女に学校教育を受けさせることになり、小学校が義務教育となった。しかし、当時の子どもは貴重な働き手であり、「授業料」などのお金がかかることもあり、学制反対一揆がおこった。このような反対により、当初は小学校に入学する子どもは多くなかったが、明治の中ごろから徐々に増加していった。一方、政府は高等教育の充実も進めていった。各地には小学校教員の養成機関である師範学校がつくられ、1877年には東京大学が発足し、外国人教師を招き、高等教育の充実をはかった。また、多くの留学生を欧米に派遣して、欧米諸国から近代的な学問を取り入れようとした。
参考文献
学習百科事典
http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/meiji/12_meiji_tyouhei_01.html