尾形光琳

出典: Jinkawiki

尾形光琳(1658~1716)

江戸時代中期の画家・工芸家。名は惟富,惟亮,伊亮,50歳代に入ってから方祝を用いる。号は初め積翠,次に澗声,道崇,寂明,青々など。

通称市之丞,35歳ごろより光琳と称した。京都の人。裕福な呉服商,雁金屋の尾形宗謙の次男。弟は陶芸家の尾形乾山。雁金屋を一代で築いた曾祖父の道柏の妻は,本阿弥光悦の姉。光琳は初め父宗謙から絵の手ほどきを受け,のち山本素軒について狩野派の画法を学んだが,やがて尾形家に伝わる宗達や光悦の作品に強く惹かれるようになった。

宗謙の死後,数年で莫大な遺産を蕩尽し,30歳代の終わりごろから画家として世に立つようになった。狩野派と宗達風が混じる「蹴鞠布袋図」(出光美術館蔵)などは,このころの清新な画風を示す優作である。また同じころ京都の鳴滝に窯を築き,乾山焼を売り出した乾山に協力,絵付けを行った。その傑作に「黄山谷観鴎図角皿」(東京国立博物館蔵)などがある。 元禄14(1701)年44歳のとき,二条綱平の推挙により法橋に叙せられる。

光琳の2大傑作のひとつ「燕子花図屏風」(国宝,根津美術館蔵)は,このころ描かれたもので,『伊勢物語』を発想の基盤に,型紙を用いながら,艶麗な燕子花をみごとに造形化している。

宝永1(1704)年に描かれた「中村内蔵助像」(重文,大和文華館蔵)は,光琳の彩管になる唯一の肖像画遺品として有名である。銀座商人の内蔵助は光琳のパトロンであり,また親友であった。内蔵助は貨幣改鋳で巨利を得,豪奢な生活を送っていた。あるとき,内蔵助の妻が東山の茶会に出ることになったが,その茶会は富豪の妻たちの衣裳競べの場でもあった。そこで内蔵助は光琳に相談し,その指示通りにした。当日,内蔵助の妻は白と黒というきわめてシンプルな衣裳で現れ,並み居るきらびやかな装いの他の妻たちをうち負かしたという。この逸話は,光琳の鋭い美意識を物語っている。

同じ宝永1年に,光琳は初めて江戸に出た。宝永2年の銘が軸芯にある「草花図巻」(個人蔵)は,江戸で世話になった大名の津軽家に伝来したもので,宗達学習の進化の跡を示して秀逸である。数度の江戸行きののち,正徳1(1711)年54歳のとき,京都に自ら設計したアトリエを建て,精力的に制作に打ちこむとともに,みずからの画風の大成を推し進めた。 「風神雷神図屏風」(重文,東京国立博物館蔵)は宗達を模写したものであるが,このような宗達学習ののち,光琳は宗達との資質の違いに目覚め,やがて「紅白梅図屏風」(国宝,MOA美術館蔵)に到達した。

光琳芸術の美的特質は,宗達芸術の明るくおおらかな装飾性を受け継ぎながらも,そこに心理的な陰影を加えて,等身大ともいうべきヒューマニスティックな装飾性を打ち立てた点に求められる。

しかし,「鳥獣写生図巻」(文化庁蔵)からもうかがわれるように,その基盤には,現実の世界に対するしっかりとした認識があったことを見逃すべきではない。

光琳は工芸の分野でもすぐれた才能を発揮,「八橋蒔絵硯箱」(国宝,東京国立博物館蔵),「白地秋草模様小袖」(重文,東京国立博物館蔵)などの傑作を遺した。光琳の蒔絵については有名な逸話がある。光琳が仲間と共に嵐山へ花見に出かけたとき,彼らは贅を凝らした行厨から山海の珍味を取り出したが,光琳はひとり竹の皮の包みから握り飯を出して食っていた。人々は嘲笑したが,よくみると,竹の皮の裏には金銀を使った精巧驚くべき蒔絵が施されていた。しかも,光琳は食べ終わると,それを惜しげもなく大堰川に捨ててしまったという。妙顕寺興善院に葬られた。

光琳は、工芸品や陶芸、蒔絵などの幅広い分野で芸術作品を数多く残している。

参考文献

河野元昭「尾形光琳」(『日本美術絵画全集』17巻) 山根有三『琳派絵画全集 光琳派Ⅰ』 西本周子「光琳・乾山」(『新編名宝日本の美術』24巻) 「日本史B用語集」 山川出版 「歴史用語辞典」 正進社 「尾形光琳とは」(コトバンク)http://kotobank.jp/word/%E5%B0%BE%E5%BD%A2%E5%85%89%E7%90%B3


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